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雪の降る道  作者: 森中満
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気がついたら、此処にいた。


私には、ほとんど覚えがないのだけれど、突然思考が私に訪れて、思わずぐるりと周りを見渡すと、無数のお墓が立ち並ぶ墓地の中に私はいた。なぜ私は此処にいるのだろうか。どうやって此処にきたのだろうか。私には何ひとつ分からなかった。何も分からなくて、特にすることもなかったから、私はおいしょっとほんの少しだけ気合いを入れて立ち上がり、周囲一面の雪景色の中を歩き回ってみることにした。


どうやら、私を取り囲むこの雪は降ってから数日経っているようで、墓地のようなあまり人がいなさそうな場所も誰かの足跡がぽつりぽつりとついていた。


「おっと。」


私の思ったよりも雪は深くて、雪の積もった道を歩くと私の足首まで埋まってしまう。もう時刻は正午だろうか。あんなに太陽が高い場所にあるから。私の思考の及ばないほど遥か遠くから注がれているはずの光は、こんなにも雪を美しく飾り付け、輝かせる。その美しさに引きつけられるように目の前の雪に顔を寄せてみると、降ってから少し時間の経った雪だからだろう、朝に一度溶けて、また夜に固まった白く透き通るような、でも氷とは違う無数の気泡を含む雪が、表面の無数の突起を、注がれる暖かな光の下できらめかせていた。


「綺麗だな。」


今度は、柔らかく私の頭の上から注がれる光を辿って、空へ目をやってみる。私の願いと反して、薄みがかった夏のようなぼんやりとして、はっきりとしないあおいいろの空は、無数に立ち並ぶ冷たく冷え切った墓石に隠されて、美しいはずの地平線を覆い隠し、私にはみることができなかった。


でも、私は知っている。きっとどこかで。


もし、私が此処からまた少し歩いて、もしもこの墓地が終わる境界線にたどり着いたとしても、きっと地平線、ましてや、青く広がる水平線なんてこの目に映すことは叶わないということを。

そして、何か別の手段を使わないとたどり着けないような場所に、それらが佇んでいることも知っている。どこでそれを知ったのかは、もう思い出せないけれど、おそらくこれが真実だ。だから、いまの私にあるのは、この限りなく薄い、雪よりも白く輝く雲がどっちつかずのあおいいろを隠すこの空と、目の前の中途半端な境界だけだ。


「ねえ、何か聞こえない?」


不意に誰かから話しかけられる。静かな、透き通る声だった。こんな寂しい場所にいるのは私だけだと思っていたから、その声への反応が遅れてしまう。


「ねえ、聞こえてるでしょ。」

「ええ。」

後ろを振り返って見つめた先には、短く髪を切りそろえて、透き通った目を持ち、年齢は二十歳くらいだろうか、私とほとんど年も背格好も変わらない女性が立っていた。


「あちらへ、行きましょうよ。」

「はい。」


知らない人のはずなのに、妙に近親感を覚えて私はその人とともに美しい弦楽器の音が聞こえる方へ歩いていく。


「こうして道はできるのね。あなたは知ってた?」


下を向いて隣を歩く女性がそう呟く。私もつられて自分の歩く道を見下ろすと、いくつもの靴底が踏み固めて、雪の道が氷に変化している道だということがわかった。私たちが歩く道は人が3人くらいは優に並んで歩くことができる道なのに、この道を歩いた人々に作られたこの道は、人が一人きりしか通ることのできないような獣道だった。靴底に荒らされていない真っ新な雪はその獣道の両側に深く残って、此処を歩く人々は皆一様に一人きりだったことをうかがわせる。


「知らなかった。」


踏み固められた氷に覆われた道をゆっくりと進むと、だんだんとここら辺一帯に響き渡る弦楽器の音の元に近づいていく。少しだけ歩き、広い道を折れた細い道の先にあったのは、周りと対して変わらない灰色をして、上に白く雪帽子をかぶった墓石の前で一人チェロを弾く男性の姿だった。年の頃はもう30歳になるだろうか。もしかしたら、その人はプロの演奏者なのかもしれない。プロかもしれない、と思ったのは、その人がこう呟いていたからだ。


「こんなに上手くなりました。聞こえた?」


彼はどこかで聞いたことのあるような気がするありふれたバラードのような、春のそよ風のように墓場の隅まで渡っていきそうな曲を一曲弾くと、そう呟いた後、一言も発することなく側に置いてあった黒っぽいチェロケースに楽器をしまいだした。光の下で、チェロに塗られたニスに反射された光に私たちは照らされる。彼のあのチェロは嘆きの歌だったのか、それとももっと温かいものだったのか、私には分からない。けれど、彼のチェロを通して歌われたその歌は私の透き通った心にまで、確かに染み渡っていた。


「雪の中でなら、この歌はもっとよく聞こえるのかしらね?」


私のそばに立つ女性が彼がケースにチェロをしまい込む様子を見ながらそう私に問いかける。彼女は、いま何を思っているのだろうか。私は、また分からない。でも、雪は音を吸収するというし、雪の中の方がよく音は聞こえるのかもしれない。私がそう彼女に答えると、彼女は泣きそうな顔で微笑んだ。


「じゃあ、あなたはなぜ此処にいるのでしょうね?」

それは、数十分前に私が思考を取り戻してから、今の今まで私にも分からないことだ。私が何も答えられずにじっと彼女の顔を見つめると、彼女は私の無言の応えもわかっていたかのように、透き通った涙をその透き通った目からひとつ、またひとつと溢れさせて、泣きながら微笑んだまま続けた。


「それならば、なぜあなたは泣いているの?なぜこんな雪の積もった墓地にたった一人なの?」


透き通っているかのように儚い彼女たちの美しく透き通った目からこぼれた涙は、きらめく雪の上に落ちても、その周りの雪を溶かすこともできずに雪の中へ溶けていく。チェロ弾きの彼のこぼした、太陽をその雫の中に閉じ込めたかのような涙は落ちた場所の雪を確かに溶かしていたのに。二人の涙も私の涙も、私の目の前でどうすることもできずに、生まれ落ちた地球に無理やり引き寄せられて雪の中へ溶けていく。私は不意に、地球に重力がなくて、涙がそのまま丸い粒になって浮かんだらいいのに、と思った。

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