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仕事帰りに

おっさんはまだまだ耳かきが出来ないようです。


壁に掛けられた時計に視線を送ると短針が9の字を指していた。

当たり前のように窓の外は暗い。

「ふぅ…」

大きくため息を吐く。

今日はひどい一日だった。

何度も頭を下げて出先から財布を回収したことを思い出し陰鬱な気持ちになる。

おかげでこんな時間まで残業するはめになったのだ。


帰ろう


もう、それしか思い浮かばない。

そんな気持ちに呼応したように、本日の役目を果たし終えたノートパソコンのディスプレイは最後にプツンと音をたてて暗転した。



重たい足を引きずりながら帰途につく。

夜の九時とはいえ、都心の駅前はまだまだ明るい。

目を引く派手な電飾の看板を追いかけている頭は、すでに家に帰って自炊するという志向を放棄していた。

元から料理が嫌いではなかったこともあるが、長い一人暮らしの生活はそれなりの調理スキルを身につけさせることになった。

だが、今日ばかりはそういう気分にはなれない。

こういうとき冷えたビールを喉に流し込めれば多少は無聊を慰めることが出来るのだろうが、あいにく自分は下戸だ。

必然、こういうときはやけ食いに走る傾向はある。

20代の身体の感覚を忘れて久しい40前の腹囲は無駄な貫禄を蓄えてつつあるが、こういう日なのだから仕方がないだろう。

行きつけというには格好がつかないが、いつものチェーン店の定食屋にするか、それとも先日開店したばかりのラーメン屋に挑戦してみるのもよいかもしれない。

定食かラーメンか。路地を彩る看板達にふわふわと視線を泳がせる。

焼き肉の焼ける匂いに、とんこつラーメンの脂臭さ、焼き鳥屋の煙。

暴力的な匂いが胃を刺激する。

鼻腔から侵入した匂いに直接、胃袋を握られているような気分だ。

これがまた悩ましい。

定食にするか、ラーメンにするか、この香ばしい焼き肉の匂いも捨てがたい。


ああ、腹が鳴る。


だからこそ、その看板を見つけたことは偶然だった。

キャスターで押し運び出来るタイプの、胸の高さまである看板。

何だろう?

ここだけ他の店とは雰囲気が違う。

茶色地に白抜きの文字。上にはクルクルと回る赤いパトランプ。

どう見ても飲食店の看板には見えない。

何屋なのだろうか? 

眉をひそめて見た看板には、茶色地に白抜きの文字でこう書かれていた。


耳かき……専門店?


耳かきというと、木や竹で出来た、あの耳かきか?

耳かきが沢山並んで売っているのだろうか?

昼過ぎに寄ったコンビニではせいぜい、本つげの耳かきと、綿棒の2種類しか置いていなかったのだが?

いや、そんなに耳かきばかり売っている店など、あるはずがない。

「……あっ!」

そういえば、記憶に引っ掛かりがあった。

しばらく前に、そういうフレーズを聞いたような記憶がある。

一瞬、意味が分らなかったが、どこかで聞いたことのある「耳かき専門店」という語感が以前テレビで見た番組の内容と一致した。

それは毎朝見ているニュースの情報コーナーで10分ほど特集が組まれていたヤツだ。

そのときまで知らなかったのだが、世の中には、散髪や、マッサージの延長線のような感覚で耳かきを商売にしている店があるらしい。

これがおそらくそうなのだろう。

「……耳かき」

耳かきというワードで脳裏に蘇るのは朝から自分を悩ませていた『あの感覚』だ。

耳孔からじんわりと染み出てくる感覚。

それは耳の中に溜まったプールの水がじわりと孔内から逃げていく時に似ている。

ああ、くそ! 放っておくと、のどの奥まで痒くなりそうだ。

気づけば先ほどの空腹感が嘘のように耳の痒さにとって代わられていた。

「くぅっ・・・・・・」

また耳の奥から蟻が這い出てきたようだ。

今日一日で何度も困惑させてくれるこの蟻は、自分の一番嫌な耳道のラインを、自分の一番嫌いなリズムで、チクチクとつつきながら行ったり来たりするのだ。

それも時間とともに、2匹、3匹と増えていく。

思わずひとさし指を突っ込むが、実際にそんな蟻がいる筈もなく、爪の先は空を切り、乱暴に耳介の表面だけをガリガリと掻き毟るのみだ。

「むぅ……」


耳かき屋。


本来なら気にも留めずに通り過ぎるような店だが、やはり今日の自分はどこかおかしい。

気がつけば、足を止めてまっすぐに看板を睨んでいる自分がいた。


耳かき屋。


いったいどんなサービスを提供する店なのだろうか。

TVで見た耳かき屋では着物を着た若い女性、通称「耳かき小町」が膝枕をしながら耳かきをしてくれていた。

だとすると、やはりここでも若い女性が耳かきをしてくれるのだろうか?


耳かき屋。


四畳半の畳の部屋。

厚さのある座布団の上、正座した耳かき小町の膝枕に頭を預ける。

優しい感触の枕が俺の頭の重さをしっかりと受け止める。

細く白い指が耳たぶを軽く引く。痛みはなく、張りを感じる程度だ。それがまた心地よい。

耳道を確保した後に現れるのが茶色い耳かき棒だ。

軽く張った耳介を薄い匙が撫でていく。

サリサリと子気味良く垢を落としながら耳かきは踊る。


耳かき屋


ああ、耳かき屋




「――――――――――――はっ!」

白昼夢から目が醒めた。

やはり、今日の自分はどうかしているのかもしれない。

誘蛾灯に誘われる蟲のように耳かき屋の看板へと足を進めて―――

「ん?」

看板の前まで来たところで足が止まった。

目の前にあるのは細い階段。

「2階か・・・」

耳かき屋のある雑居ビルの階段は2階にまで伸びていた。

遠目には分らなかったが、どうやら店舗は2階にあるらしい。

ちらつく蛍光灯で照らされた階段の先は薄暗い。

そこで一度、冷静に戻れた。

何というか、この耳かき屋は怪しい。

そもそもTVでやっていたとはいえ、耳かき屋なんて珍しい商売が、たまたま職場の近くであるものなのだろうか?

もう一度、看板を見る。


耳かき専門店『CALM』


と茶色い外面を内から照らした文字の中には怪しい雰囲気はない・・・・・と思いたい。

もしも、これで実際に上がってみて風俗とかだったらどうしよう。

いや、それならそれでいいのだが、今日は疲れているし、あまりそういう気分でもない。

一応確認しておいた方が良さそうだと感じて、懐からスマートフォンを取り出した。

「近辺の地名」と「耳かき屋の屋号」を入力、検索。

「おっ…」

出てきた。

現れたのはまるで歯医者のような清潔な空間。

そこにいかがわしい空気は一切ない。

施術者というのは耳かきをするスタッフのことだろうか? 意外にも男性だ。

年の頃は20代後半といったところか。

細面に半袖の白衣が良く似合う、優しそうな雰囲気の青年だった。

TVでは浴衣の女性が膝枕だったのだが、どうやらここでは施術用の専用ベッドで仰向けになりながら耳かきをするらしい。

自分は行ったことはないのだが、なんというかエステのようなイメージだ。

いくつかメニューがあるのか?

「………………六千円」

思ったよりも高い。

しかも一番安いコースでだ。

40分で六千円。たまに行くマッサージ屋が一時間でニーキュッパだと考えるとべらぼうに高い。

いや、エステと比較するとむしろこれは安いのか?

イマイチ比較対象がないから分らない。

いくつかコースがあって、最初に目についた安いコースは耳掃除に加え、産毛剃り、耳マッサージがついているようだ。

「産毛……剃り?」

意味が分らない。

産毛というのは耳の毛を剃るのか?

鼻毛なら毎日伸びていないか手入れはしているが、耳の毛?

もはや理解不能。想像することなど出来る筈もない。

ああ、ダメだ。

腹の底から好奇心がむくむくとせり上がってくるのを感じる。

こうなると止まらない。

ちょっとドキドキしながらも、躊躇っていた両足は意を決して暗い階段を上り始めた。

こうして見ると最初は怪しく感じた薄暗い階段が、まるで秘密基地への入口のように見えるから不思議なのものだ。

4階まである雑居ビルの2階まで上がると、そこに現れたのは屋号と営業時間が書かれてた自動ドアだった。

薄暗い階段と違い、耳かき屋の中は自動ドアのガラス戸を通して、柔らかい暖色系の光がにじみ出ている。

緊張と期待の半々で、自動ドアの前に立つ。

来訪者の気配に気がついたのか、自動ドアが開く。


受付と思しきカウンターに人影はない。

それと同時に風鈴の音が聞こえた。

見上げると自動ドアの上の部分に金属製の風鈴がついている。

なるほどこれで来店したことを内部に知らせるわけだ。

そう思い、受付カウンターに置いている小さなサボテンを眺めていると、しばらくしてスマートフォンで見た青年が店の奥から現れた。

ディスプレイで見た雰囲気と同じく、緩いウェーブがかかった黒髪にやや下がりがちな目じりをした、優しそうな青年だ。

胸元のネームプレートには「九一」と漢数字で謎のナンバーが刻まれている。

こんな小さな店に91人もスタッフがいるのか?

いや、そんなはずはない。

どういう意味なのだろう?

ああ、本当にダメだ。

変にテンションが上がってしまっているせいか、あらゆるところに突っ込みをいれたくなってしまう。

そんな自分の様子に気がついたのか、青年は少しだけ驚いたように眉を動かした後ににこやかに問いかけてきた。

「あ、初めての方ですね?」

「あぁ、はい」

内心のワクワクを押さえながら答える。

すると、次の瞬間91番のネームプレートを付けた青年は申し訳なさそうに頭をさげてきた。

「申し訳ありません。今日は予約がもういっぱいで……」

「え?」

予約制だったのか?

たしかに入口にもそんな文言が書いてあったような気がする。

それにしても一見で断られるとは、さすがに予想外だ。

青年は精一杯に詫びの言葉を口にすると深々と頭を下げた。

とはいえ、予約が埋まってしまっているのであればどうしようもない。

・・・・・・・・・・・・・・・・・

・・・・・・・・・・・・・

・・・・・・・・

・・・・・




手に握っているのは去り際に91番の青年から手渡された割引チケット。

次に来たときにご利用ください、ということらしい。

予約も勧められたのだが、とりあえず断った。

「腹が減ったな……」

言い知れぬ疲労感の一日に、余計な疲労をひとつ重ねて、両足は定食屋を目指すのであった。


結局、今日は無理でした。

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