打ち合わせが終わって
引き続き、おっさんが耳かきをしようとする話です
ハードな一日だった。
仕事の量はそれほどではない。
疲れたのは肉体ではなく、精神だ。
特に昼過ぎに突然起こった耳の痒み。あれにえらく精神を削られた気がする。
気温のピークは過ぎたが、この時間帯は西日が堪える。
道路を見れば熱く焼けたアスファルトの大地は今にも陽炎を起こしそうだ。
赤信号で止まっているトラックの運転手は額に汗を流しながら、日に焼けた太い腕でハンドルを握っている。
これだけの日差しだ。焼けた車内ではクーラーなどものの役にたたないのだろう。
当然、水分補給も必要だ。
運転手は信号が変わる前に助手席に置いてあった1.5リットルのペットボトルに手を伸ばすとそのまま一気にあおる。
色から察するに中身はスポーツドリンクだろうか。甘みを帯びた白濁色の液体は瞬く間に運転手の身体に吸収されていく。
ゴクリと喉が鳴った
喫茶店を出てからずいぶんと時間が経っている。
猛暑の中歩いたせいで、もう喉はカラカラだ。喉を潤したいという欲求が全身を支配する。
こういうとき、普通ならキンキンに冷えたビールなのだろう。
しかし酒は飲まない主義だ。
飲めない訳ではないのだが、そもそもアルコール全般の味が好きになれない。
こういうときはシンプルに麦茶だ。
麦茶の香ばしい香りと、その後に続くほのかな甘み。それをぐびぐびと飲んで体中にしみ渡らせるのだ。
「……ふぅ」
もっとも麦茶を出している喫茶店などそうそうお目にかかれはしない(少なくとも自分は見たことがない)だろう。
探せば、個人経営の飲食店で出している所もあるのだろうが、そんなものは砂漠に落ちた砂金を探すほどに難しい。
まぁ、麦茶は無理にしても、会社に戻る前にどこかで一息つこうか。
そう考えた矢先だった。
「うっ…」
ぶおん、という音。
ついで、目の前にむわりと熱気が広がった。原因は先ほどまで目の前にトラックだ。
水分補給とともに赤信号も終了したのだろう。運転手が踏み込んだアクセルに一瞬遅れて車体が進む。
続いて巻き起こったのが排気がもたらす熱気と、大量の粉塵だ。
その排ガスに思わず酔った。
ゲホゲホと何度かせき込む。
まったく、何て日だ。
気を取り直して、どこか喫茶店でも―――
「ん?」
異物感を感じた。
それは耳の奥。
外耳と鼓膜の中間に“じゅくりとした違和感”だった。
巻き上がる粉塵のせいだろう。
目、口、鼻、そして耳。侵入した異物は容赦なく、各孔からの異物感を引き出したのだ。
それはまるで身体の奥から蟲が這い出てくるかのような感覚だ。
身をよじりたくなるような強烈な痛痒が全身を貫いていく。
………………………耳を掻きたい
強烈な衝動が湧きあがってくる。
しかし、痒みのポイントに指が届かないことは昼の時点で十分に承知している。
そうなると決心するのは早かった。
視線はすでに目的のものを探していた。
幸いにも、この道は仕事で何度も通っている。
向かいの通りの少し先、そこに青色の看板があった筈だ。
「うん」
よし、見つけた。
それは全国的に有名なチェーン店のコンビニだ。
目標を決めると、そのままの脚で信号を渡り自動ドアの前に立つ。
来客を伝えるかん高いブザーの音と一緒にドアが開くと、室内を循環していた涼風が顔を撫でた。
本来ならクーラーの生み出す清涼感に身を任せたいところではあるのだが、今回はなにぶん余裕がない。
店内を見渡すと、行きつく暇もなく目的のもののある棚に足を運んだ。
雑誌コーナーや、お菓子コーナーには目もくれず、それが置いてある棚の前まで足を運ぶと、親の敵のように睨みつける。
ポケットティッシュ、歯ブラシ、爪切り。
陳列されているアメニティグッズの中にそれはあった。
“耳かき”だ。
昼の喫茶店で失敗したのは、自分で耳を掻くための道具を作ろうとしたことだ。
それがそもそもの間違いだったのだ。
こうして耳を掻くための道具があれば、あんな無駄な努力を費やすする必要はあるまい。
耳に入れた際の竹独特の繊細なタッチ。
細くも決してよれてしまうことのない頼もしさは、紙で出来たこよりには真似の出来ないものだ。
細い竹の先に備わったスプーン状の部分が耳の老廃物をコリコリと掻きだすところを想像すると、耳の疼きは一層と猛威を増した。
いかんすぐに耳かきを購入せねば。
「むっ!」
そこで手が止まった。
「……………」
目の前にあるのはプラスチックのパッケージに収められた耳かきだ。
梵天耳かき、450円
思ったよりも値段が高い。
100円ショップで全く同じものが売っている筈だ。つまり4.5倍の価格。これは少しぼり過ぎなのではないか?
実際に手にとってみると違和感に気がつく。
ぼわぼわの白い綿毛がついた耳かきの軸の部分の色が薄い。
パッケージには「本つげ製」の文字。
本つげ?
どうやら、材質は竹ではないらしい。つげといえば、高級な将棋の駒にも使われている木材だ。だからこんなに高いのか?
そういう視点で見てみるとコンビニに並んでいる程度の商品だというのに奇妙な風格が漂いだす。
どこか遠くで鹿落としの音がカコーンと聞こえた気がした。
◇
静かな畳の部屋。
床の間に飾られた達筆な書の前で二人の将棋指しが盤を挟む。
一人はスーツで、一人は着物だ。
名人のタイトルがかかった大一番。スーツの若い挑戦者は、その若さに任せてバチリと駒を盤に叩きつける。
周囲からはどよめき。それほどまでの巧手。
だが、名人の称号を持つ老棋士は自身が死路に入ったにも関わらず焦りは見られない。
長考した後に「ふむ…」とひと言だけつくと、羽織のたもとから一本の耳かきを取り出した。
水鳥の毛から作った柔らかそうな梵天を支えるのは、自らの前にある駒と同じ材質で出来た白い軸の耳かき。
長年使い込んできた逸品なのか、持ち手の部分だけ少し茶色く変色している。
それを耳元に運ぶと慣れた手つきでそっと耳に差し込んだ。
ややぶ厚めに作られた匙は耳道を傷つけることなく、鼓膜の少し手前で動きを止める。
外面からは伺い知ることは出来ないが、長年の経験で老棋士はもっとも垢のたまり易い、耳掃除をする上でのスウィートスポットであることを知っている。
軽く力を込めるだけで堆積した耳垢の層にズボリと匙の先端が埋まる。
そのまま、ずずぅっ、と引きずり出した。
鼓膜にバリバリという音が反響し、身体の最奥から何かが引っ張り出される感覚が脳天を突き抜ける。
一度に全部掻き出してしまうようなことはしない。
奥から中腹へ、中腹から手前へ。
少しずつ、中心から滲み出てくる感覚を表層にまで落とし込む。
それを四度に分けて行うと、残った粕をすっと掬いとり、懐に収めていた和紙に落とす。
老棋士は、二、三度身震いすると、もう一度「ふむ…」とひと言だけつき、枯れ枝のような指先で歩の駒を挟むと盤上にペチンと置いた。
先ほどの若い棋士の一手に比べると、勝利の意欲や迫力に欠ける一手。
だが、当のスーツの挑戦者は赤い顔に変わり、そのままみるみる顔色を青ざめさせていくと、唇を震えさせたまま「…ありません」と絞り出すように呟いた。
老棋士の勝利だ。
さしたる感慨も湧かないのか、老棋士は「…ふむ」と一度だけ頷くと、耳かきをたもとに戻すのだった。
◇
「…………………はっ!」
コンビニで耳かきを手にして立ちつくしている自分に気がついた。
どうやら妙な妄想が頭の中を支配していたようだ。
いかん、いかん、と自戒して、頭を振ると再び手元に耳かきに視線を戻した。
450円という価格は恐らく耳かきとしては高いのだろう。
しかし、現時点で全身を支配している耳の痒みはいかんともし難い。
だが、しかし、450円。
当たり前ではあるが、小中学生ではないのだから別に財布から出せないというほどの額ではない。
手持ちのキャッシュでこの耳かきなら5~60本は買える。
それこそこのコンビニ中の耳かきだって在庫も含めて(まさか耳かきのストックが100本も200本も置いていないだろう)買い占めることだって可能だ。
それを速やかに購入し、耳の奥で蠢く蟲を排除する。それが正解の筈だ。
だというのに、自分の中の何かが「待った」をかける。
何ゆえだ?
自問して、その答えを棚に求めたとき、存外に早くそれは見つかった。
視界に収まっていたのは、細く、短い、白い棒。
人差し指ほどの長さのそれは文字通り束になってプラスチックのケースに収められていた。
「そうか……」
なるほど、綿棒。これが答えか。
確かに耳掃除をするときの道具は耳かきだけではない。
“耳かき”“綿棒”この二つがもっともメジャーな耳掃除ツールとして君臨するだろう。
しかも、耳掃除のためだけに存在する耳かきと違い、綿棒はメイクや掃除にも使える万能ツール。
その存在感は「棚の一番下の段でも余裕で売れる」という自信とともに群を抜いていた。加えて、その価格は150円だ。
さて、どうするべきか?
気がつけば右手には耳かき、左手には綿棒
耳かきで奥に貼りついた垢をバリバリと砕いて引きずり出すか、綿棒で溜まった塵や埃をグリグリと拭っていくか。
一般的にはウエットタイプの耳垢には綿棒が良いと言われている。
日本人のほどんどは乾燥型の耳垢であり、自分もその例に漏れない。しかしそれは綿棒で耳垢がとれないことを意味しているのではない。
綿棒は細かい部分の掃除に適した万能ツールだ。耳掃除はその代表ともいえる。
その除去能力は決して耳かきに劣るものではないのだ。
ならば、いっそもう値段で決めてしまうか?
いや、違う。そもそも値段の問題ではなかった筈だ。
どちらがより現状を打破してくれるか。それが問題だ。
こうする間にも耳の底で剥がれかけた皮膚の残骸が揺れているのだろう。鍛えようのない弱い部分をくすぐられて容赦なく判断力を奪っていく。
そのとき、
「―――――――――――!」
脳内の老棋士がニヤリと嗤った。
本つげの耳かきを指先で弄しながら「これの価値が分らんとは、まだまだひよっ子よ」と言葉ではなく笑みで雄弁に物語っていた。
同時に、耳かきを穴に差し込んだ時の硬いぞくぞくを芯から呼び覚ますような感覚が脳天から股間までを駆け巡る。
「くっ!」
もう我慢が出来なかった。耳奥から蟲が這い上がってくるような感覚を一刻も早く取り除きたい。
乱暴に梵天耳かきを棚から取り出すと、レジまで全力で歩を進める。
レジ台に耳かきを置くと、店員がバーコードを通している間に懐から財布を取り出し・・・・
「?」
バーコードが通し終わった耳かきがレジ袋に入れられる間に、ズボンのポケットから財布を取り出し・・・
「?」
カバンの中身を慌ててかき混ぜながら・・・
「?」
おかしい、財布がない
その事実を認めるまでに、数瞬の間を要した。
いつからだ?
昼過ぎに喫茶店に入ったときには確かに持っていた。
ならば、出先で資料を取り出したときか? まさか、タクシーの中に? いくら入っていた? 警察に届け出…? いや、まずはカードを止めないと―――
「あの……お客様?」
「ッ!」
「えっと……どうされますか?」
「あ…すみません」
控えめがちに聞いてきた店員に小さく頭を下げながら、足早にコンビニを出た。
クーラーで乾いたシャツ筈を嫌な汗が上塗りしていく。
耳に巣くった蟲のことなどすっかりと忘れ、スマートフォンを取り出すと、まずは出先の電話番号を探すのだった。
やっぱり出来ませんでした