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昼下がりの出来事

八月の暑い日だった。

真上から射してくる日差しは容赦なく頭髪を焼いていく。

クーラーの効いた取引先のビルから出てきたばかりもあって、この熱気はひと際だ。

俺はビルの角を曲がると、胸元に指をかけてネクタイをゆるめた。

次の打ち合わせは午後4時から。

歩いていける距離だということを考えても、時間的な余裕がかなりある。


暑い


学生時代は野球部で炎天下の中をいくらでも走り回ったが、40を前にした身体にこの日差しは堪える。

歩いて3分も経てば、頭から流れた汗が眉毛を伝ってあごの下まで流れてきた。

アイスコーヒーが飲みたい。

猛烈にそう思った。

確かこのまま大通りを進んだ所にある喫茶店のアイスコーヒーが美味かった。

前回、打ち合わせに来たときの記憶を思い出す。

熱中症がTVで特集される時期だからペットボトルは持ち歩いている。

バラエティ番組でMCをしているタレントが毎年CMをしている熱中症予防に効く「経口補水液」というヤツだ。

しかし、あいにく午前中の間に飲み干してしまっていた。

歩いている間にいくつか自販機の前を通り過ぎ、お茶を買いたいという欲求に押しつぶされそうになるが、これから飲み干すアイスコーヒーのために我慢だ。


しかし暑い。

大通りのせいで空気も悪い。

赤信号が終わって動き出した大型トラック。

その埃っぽい排気が顔にかかり思わず顔をしかめてしまった。

ああ、もう最悪だ。

早く喫茶店に入りたい。

急いでいた足をさらに速く進めて、俺は目的の喫茶店の中に飛び込むと、背後で扉がしまると同時にカランコロンと金属製のベルが鳴った。


店内は空調が効いている。

最近では珍しくなってきた個人でやっている昔ながらの喫茶店だ。

前回きたのは3か月ほど前だったが、そのときも蒸し暑くなってきた時期だったのでアイスコーヒーを頼んだのだ。

すいている時間だったのテーブル席につくとメニューを見ずに、俺は目的のアイスコーヒーを注文した。

「ふぅ……」

ようやく一息つける。

最初に持ってきてくれたお冷は一気にがぶ飲みしてしまった。

量が少なかったのだが、これから持ってくるアイスコーヒーのことを考えれば大きな問題ではない。

暑さもしのげ、喉の渇きもいったん収まり、ようやく心に余裕が戻って来た。

せっかくだ、次の打ち合わせの資料にでも目を通そうとしたときのことだった。

「……ん?」

耳の奥がじわり疼いた。

何だろう。


耳の中が………痒い?


埃っぽいところを歩いてきたせいもあるのだろう。

汗と埃が耳垢となり、耳の奥でかすかな“こそばゆさ”を生み出してた。

これはなかなかにつらい。

人さし指を立てると、俺はそのまま耳孔に突き立てた。

「むんっ……ん?」

痒みの大本は思っていたよりも奥だったようで、震源地にはまるで届かない。


グッ、ググッ……グッ……


押し込んでみるが、人さし指では太すぎるようだ。

ならば、小指ならどうだ?


ズ、ズズズッ……ズッ……


先ほどよりは奥まで進みはしたが、まだまだ届かない。

これでもまだ無理なようだ。

その後も何度か指を抜き差しするが、耳の表面ばかりをガリガリと掻くばかりでまるで効果がない。

そのうち耳穴の周辺ばかりがヒリヒリするせいで、耳道の奥の痒点はどんどん嫌らしさを増していった。

まるで穴の奥から無数の蟻が這い出て来ているようだ。

じわじわとむず痒さが広がっていくと、その内に喉の奥まで痒くなってきた。

これはたまらない。

耳かきでもあればよいのだが、当然そんなものはない。

何か他に代わりになるものは……

テーブルに視線を向ける。

「!」

あった!

即座に手を伸ばしたのは円柱状の上部に小さな穴の開いた入れ物。

『爪楊枝入れ』

まさに今の状況におあつらえむけだ。

爪楊枝の頭の部分を慎重に差し込んで、耳壁に張りついた耳垢をゆるゆるとこそぎ取っていく。

考えただけで唾が出てきそうだ。

焦燥感に駆られて、乱暴に爪楊枝入れを逆さまに振る。

しかし……


「??」


いくら振れども爪楊枝が出てくる気配がない。

それどころか音すらも聞こえてこない。

「ッ!」

何ということだ。

爪楊枝が補充されていない。

空だ。

俺は落胆を隠しきれず、力なさげに爪楊枝入れを置く。

何か代わりに耳かきになるものはないだろうか?

視線を泳がせたテーブルの上にあるのは、灰皿、空の爪楊枝入れ、ペーパーナプキン、塩の入った容器、メニュー表・・・・・・


「・・・?」


何だ?

何か引っ掛かる。

もう一度、視線を向ける。

そこにあるのは、灰皿、空の爪楊枝入れ、ペーパーナプキン、塩の入った容器、メニュー表・・・・・・灰皿、空の爪楊枝入れ、ペーパーナプキン、塩の・・・これだ!

俺はペーパーナプキンを乱暴に引き抜くと、指で摘まんで縦に裂いた。

細長い長方形に裂かれたペーパーナプキンはひらりと俺の手のひらに収まる。

それを俺は間髪いれずに親指と人差し指で捻って一本のこよりに変えた。

「ふむ」

我ながら良い出来だ。

でき上がったこよりを指で押すと思った以上のコシがあり、指先を跳ね返した。

行ける! と感じた俺はこよりをゆっくりと耳道に導いていく。

こよりはカサカサと音をたてながら進んでいく。

紙で出来た穂先が耳毛をかき分けて奥に進む度にチリチリとした感覚が生まれ、背骨の上をゾワゾワと快感が這い上がってくる。

痒みの発生源はもうすぐそこだ。

だが・・・・・・・・・・


「!」


何ということだ。

むず痒さの源はすぐそこだというのに、あと一歩のところでこよりが届かない。

長さが原因ではない。

むしろ長さは十二分にある。

問題はその角度た。

耳垢が固まっている部分なのだが、おそらくはくぼみにでもなっているのだろう。

こよりの直線的な動きではこの部分は補足できない。


カサ、コソッ、ザザザッ


あらゆる方向からこよりに捻りを加えて耳垢の除去を試みる。

しかし穂先は空を切るばかりでまるで効果がない。

そうしているうちに段々と耳奥の疼きが、より奥の方向に向かって広がっていった。

「うぅ」

届かない。

もどかしい。

もう少し斜め奥の方向に届いてくれさえすれば、悩みは解決するというのに、紙で出来たこよりではいくら奥に押し込んでも途中で折れ曲がり、くぼみに到達してくれない。

もしもこれが爪楊枝だったら、折れ曲がることなく指先の動きをダイレクトに伝えて、存分に耳壁の疼きを蹂躙出来ていたはずだ。

どうしてこの店は爪楊枝を補充していないんだ。

理不尽な苛立ちに任せて、そのまま俺はこよりを引きちぎってしまった。

クソ、爪楊枝さえあれば、こんなイライラせずとも済んでいたはずなのに―――

「!」

そこまで考えて、雷光のように閃いた。

そうだ、何も自分のテーブルの上に固執することはない。

隣のテーブルから爪楊枝を借り受ければよいのだ。

いくら何でも、隣のテーブルにも爪楊枝が置いていないということはないだろう。

我ながら良いアイデアだ。

そう考えて、立ち上がろうとしたときだ。

「お待たせしました。アイスコーヒーです」

「!」

「…? ご注文は以上でよろしいでしょうか?」

「あ、はい」

「では、ごゆっくりどうぞ」

「……」

いきなり声をかけられてドキッとした。

早鐘のように鼓動が鳴っている。

「あ……?」

あれ?

気がつけば耳奥の疼きが消えていた。

それと同時にイライラも消えていく。


何だかアホらしくなったな……


先ほどまでの執着は何処へやら。

冷静さを取り戻した俺は何だか妙に恥ずかしくなって、そのままアイスコーヒーを飲みほした。


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