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ボーイミーツ…………

作者: OS

 僕は今夜、家出をした。

高校へ行かなくなって三か月目、親の僕を見る目が人間を見るそれじゃなくなったと気づいた時、そうすると決めた。

行先は決めていなかった。何も持たず、とりあえず自転車を使って「人の多いところを目指そう」と思った。人の少ないところをなんて、如何にもひきこもりらしい場所だと思ったからだ。

自転車を音を立てないように取り出して、家の敷居を超える。一度超えてしまうともう振り返る気すら起きなかった。自転車にまたがりペダルを踏む。今まで感じたことのないほどそのペダルは重い。

深夜の二時、住宅から明かりは消えてしまって僕を囲む冷たい壁のようだった。空は厚い雲に覆われていてその姿を見せようとはしていない。そんな風景に不安になった僕は白い息を吐き出しながら駅を目指した。

静かな冬空の下、僕は儚い自由を手に入れた。

ペダルを回す事に鳴る金属音だけが満ちたこの世界はそれを証明しているようだった。

 

衝動に駆られて家出をしたものの、家を発ってすぐの僕はあることを悟っていたようだ。それはこの家出が僕に特別な何かをもたらすことはない、ということだ。

何かを期待するようなことは家に引きこもるようになってから消えてしまった。小さな部屋に世界を限定し続けていくうちに自分が大したことのない人間だと思い知らされていった。だから、そんな僕が家出をしたところで劇的な何かが……例えば、親の僕を見る目が変わることもないだろうと確信していた。

 終電も無くなって、人の気配が全てどこかへ飲み込まれてしまったような深夜の駅前。歩道のアスファルトを叩く音がやけに響いて孤独を実感させられる。そんな暗闇の中二十四時間営業のコンビニだけが無機質な光を保っていた。

ここが僕の旅の終着点だと思っていた。僕の小さく重大な決断はこんなくだらない終わり方をして、明日から何も変わらない日常が続いてしまうのだと思っていた。

この先に向かう当てもなく、精々夜通しここに意地で居座り続けて、明け方にはむなしくなって帰宅する自分の姿は容易に想像できていた。もしかしたら一晩すら耐えられずに駅の周りを一周して満足し帰宅するかもしれない。

思いあがった自分の頭を上から金づちで叩き付ける、そんな一晩になるとこの時の僕は思っていた。




しっかりと防寒具を着てきたはずなのに体は震えそうになるほど冷たい。それは僕が深夜の寒さを軽く見ていたからではなかった。僕の体を震えさせているのはこの強風だ。

いや、風と言うのには語弊があるかもしれない。何故なら強い風が吹いているというよりも僕が――僕らが猛スピードで移動しているのだから。

二つのタイヤがアスファルトの路面と激しく摩擦し、コンスタントに心地よい響きを生み出す。普段なら不快に感じるこの音も実際に当事者となると耳に程よく残る音楽のように感じられた。

僕は今高速道路の上を移動していた。

それも自転車ではない。初めて乗るバイクを使っての移動だった。僕の持つ自転車ではとても体験できない「風を切る」という感覚が身に染みて理解できる乗り物だ。

高速道路に入った時、最初に感じた恐怖は今となってはスリルとなって僕の気分をやけに盛り上がらせる。不安の象徴だった夜の闇が、イルミネーションを際立たせるための暗闇のように感じられた。

バイクは進み続ける。目的地は考えていない。

速度を落とさないまま、ふと目線を持ち上げると大きな電光掲示板が掲げられているのが目に入った。「午後二時半ごろ、○○付近で交通事故が発生しました――ーー」という表示の横に「三時五分」という字が見える。

あれから一時間が経ったようだ。

たった一時間前のことなのに僕にとってはそれが昔見た夢のように思えた。決してその記憶が不明瞭だというわけではない。とても信じられないというべきだ。

僕の目の前には一人の人物がいた。ライダースーツで身をまとい、ヘルメットももちろん身に着けている。だから僕にはこの人の性別や年齢もわからない。

ひきこもっていて人を見る機会が減ったせいで体型からそういったことを割り出すこともできなかった、とかそういうわけではない。ライダースーツというものに詳しくないので着痩せや、その逆が起きているとも判断できないからだ。

つまり、僕は目の前の人物について何一つ把握できていない。

それでも僕はこの人が信用出来る気がしていた。

普通の人間ならそんな僕の心情に共感なんてしてくれないと思う。特に僕の両親は永遠に僕の気持ちなんてわかるまい。

僕の両親は決して僕のようなうかつな感情なんて抱かない。全て厳密に、正確に判断して――――そして僕を見限ったような目をこの人物にも向けるのだ。

そんな両親がいるからこそ僕はこの人を一層強く信じようと思った。

高速で走るバイクによって生み出された疑似的な風が僕の思考をどこかさわやかに演出しているように思える。そんな中で僕が思い返すのはたった一時間前の、そして十年先でも忘れられなさそうな出会いだった。


誰もが目を合わせないようにして通り過ぎていく、そんな底冷えした駅前で僕は確かに出会った。

駅前に来て何かが変わったわけでもなかった僕がその足を家の方角へ向けようとしていた時のことだった。時刻は二時ごろ、早く起きなければいけない用事もない僕とはいえ穏やかな眠気が意識を朦朧とさせていたころだった。

ふと、目についた。

信号待ちの時に見つけた車のナンバープレートがやけに記憶にこびり付くような、あるいはいつも通っている街の一角だけやけに存在感を放っているような、そんな感覚だった。

ガードレールをはさんだすぐ横の車道。

黒いバイクにまたがってこちらに手を差し伸べる人物がいた。

すらっと伸びた背筋は凛々しさを感じさせている。バイクや服装も含めて黒一色にまとまったその人物は街灯の光に濡れてどこかナイフのような恐怖を持ち合わせていた。

「……あ、あ」

 言葉は出なかった。そして、僕が何かを発してもそれは目の前の人物の黒色にのまれてしまうという予感がしていた。

だから、手を取った。

恐怖と違和感に頭の底が警鐘を鳴らしていたけれども、むしろクラブにかかった音楽のようにいたずらに人を狂わせるものでしかなかったようだ。僕はその手を取るとその人物は目的地すら告げずに夜に新しい音を生み出した。



「よっと」

小一時間程度のバイクツーリングから解放された足は、地面を踏むと僕に少しの安心と違和感を与えてくれた。久しぶりに踏んだアスファルトの地面は同じはずなのに駅前のものとはまるで別物に思える。

僕らはサービスエリアでいったん休憩をとるらしい。高速道路を利用し慣れていない僕にとってこのサービスエリアがどこにあるものなのかはわからなかったが、流石にここが目的地ということはあるまい。

相変わらず空は隅で塗りつぶされたような黒が広がっていて、人工的な光を放つサービスエリアの施設も幻想的な雰囲気を醸し出していた。

「三十分後にはこの辺にいなさいよ」

「あ、うん」

 そう答える。聞き覚えのない声だった。なんとなく返事をしたが、僕は誰に返事をしたんだろう――――夜も更けてあまり回らない思考を携えて振り返る。

謎のライダーがヘルメットを外してそこに立っていた。

ヘルメットに閉じ込められていた髪が解放される。そして男性にしてはやけに柔らかい声で僕に話しかける「そう言えばあんた、酔ったりしてない?」よく見ると身長も僕と同級生の女子と大して変わらない。

どうやら僕をここまで連れてきた謎の人物は女の子だったらしい。

「初めての運転だったからそこが心配だったのよ」

「えっあ……、あの」

 聞きたいことはいろいろある。どう考えても僕と年齢が大して変わらない少女が夜の高速道路でバイクに乗ることが許されるのか、とか。そもそもこの人今初めての運転とか言った? 信じられなかった。色々。

「だ、大丈夫です。たぶん」

 ひきこもり故、言葉がうまく出てこなかったが頑張って答える。出来るだけ不自然にならないように、頑張る。作り笑いも苦手だけどしておいたほうが良いだろうか、悩む。

目の前の彼女にはそんな僕が滑稽に見えていたらしく、

「あんた作り笑い苦手? すっごい気持ち悪い」

 あっはっは、と快活な笑顔が浮かぶ。

 そんな風に一笑されることは普通なら屈辱的に思うべきかもしれないけれども、彼女が言うとそれがすんなりと受け入れられる気がした。

特に根拠はない。僕は案外この状況にのまれているのかもしれない。

一通り笑って満足したのか、彼女は僕の肩に手を置いて言う。

「色々聞きたいことはあると思うけど、ひとつだけ教えてあげるわ。それ以上聞きたいならここに置いていく」

 明らかに怪しいそんな言動。しかし、僕にはその言葉通りここに残ろうとも思わなかった。それは許された質問が一つすらなくても僕はそうしたと思う。

僕は家を出てから何かを期待し続けているのだろう。それは日常とは一線を画すような何かで、具体的なものは思いつかないけれども――――。

僕の手を引いてここまで連れてきた彼女にはそれがあふれているように見えた。

それに気づいたときに僕が感じたことは「羨ましい」という感情よりもあやかりたいという気持ちだった。そしてそれが正当化されるほど僕と彼女の間には差がある。

だから、聞きたいことは決まっていた。

「……地は」

「うん? ぼそぼそしゃべっても聞こえないって」

 深呼吸して、もう一度声に出す。

「目的地を教えてほしい」

 目的地、それを知ることができれば僕の中で一つの踏ん切りがつくような気がした。少なくとも今までの自分とは何か一線を画することができる気がした。

一体どこを目指しているのだろうか、北海道? 沖縄? そもそも沖縄ってバイクで行けるのか? よく知らないけれど。

目の前の少女はそんな僕の質問を意外に思っているようで、一瞬だけ驚いたような表情を見せて、また笑った。

よく笑う人だと思った。そういうところも含めて僕と正反対なのだろう。いや、こんな風に自分と同じ土俵に立たせようとすることすらおこがましいように思えた。

「目的地ね。普通さ、こういう時は『何で僕を連れてきたのか』とかそう言うことを聞くと思うってたけど」

「……あはは」

 うまい返しが思いつかず、作り笑いで曖昧に返答すると彼女は「やっぱり気持ち悪い」とだけ言って笑う。

「海よ」

「う、海?」 

「そうよ。夜明けを見に行くの――――あんただって最期に見る景色は綺麗なほうが良いでしょう?」

 少し前と同じように僕に手を指し伸ばしながら、彼女はそう言った。暗い空の下で彼女だけが孤独に輝いているようだ。



 あの後トイレに行ったり、二人で一緒にフードコートで軽食をとったりした。彼女は「奢ってあげる」なんてことを言っていたが僕の引きこもりなりのプライドはそれを許さず、しかしだからといって金を持ち合わせていなかったので折れることになった。

所詮引きこもりなんてこんなものだ。

そして、時間まで少しだけ余裕があったので僕はその辺を散歩していた。サービスエリアと言うと無機質なものを想像していたけど、此処の場合は夜の闇を穿つような街の光を一望できる場所もあったりしてほどほど楽しめる。

僕はそんな風景を策に身を乗せながら眺めていた。頭の中では彼女についてのことが渦巻いていた。

「名前、教えてくれなかったな」

 別に特別知りたいわけじゃなかった。会話の種になるかと思って、社会不適合者なりに聞いてみたのだ。そしたら「教えるほどのことじゃないわ。あと許した質問は一つだけだから」と断ち切られた。しつこく追及してもその口は閉ざされたままだったと思う。

しかし、

「今更だけど不審だよなぁ」

 未知の出会いという酔いが徐々に抜けてくると、彼女の怪しさが目に付くようになってきた。恐怖を感じるほどではないが現実感がなかった。

運転に関しても自分で言ってた通り初めてのようで、食事中如何に緊張したかを語っていた。そんな話をされる方が何倍も緊張するということを知ってほしかった。

どうやら僕は生きて帰れるかも不安らしい。

いつかの電光掲示板でも見た事故のニュース、その二の舞にならないよう祈ることだけだ。

 考え方を変えれば、一日中引きこもって死んだように生きるよりも、突然であった謎の少女と無免許運転の末に死んでしまうほうがマシなのかも知れない。

「考えたところでできることもないんだ。だったら、付いていこう」

 そろそろ時間もいいころ合いだった。バイクの色も、場所も大雑把に覚えているので迷うことはないだろう。眼下に広がる町、それらから目を離して歩き出す。

 特に迷うこともないままバイクの駐車位置に近づくと、彼女の姿が見えた。 バイクのシートに腰を掛けている。しかし変な点があった。

「……だから」

「で…………だろ」

 如何にも、と形容できそうなチンピラに彼女が絡まれていた。それも二人、今でこそ穏やかな様子の会話だが男たちの視線がいやらしいものに僕には見えた。

それを見た時僕の足は止まってしまう。動きべきだとはわかっているのに、あの中に僕が入っていける気がしなかった。

「どうする」

 そんな自問に答える人はいない。僕がどうにかするしかない問題だった。それでも僕は動けない。

動けないまま彼女を見つめていると、彼女の視線が僕を貫いた。それは僕の手足に燃料を投下するのではなくむしろ凍り付かせてしまう。僕ができたことと言えば、その目線から逃げるように目を逸らすことだけだった。

そして目をつぶる。都合の悪いことだけが過ぎ去ってしまうのを期待するように。

…………。

…………………。

肩に何かが触れた感触があった。驚いて目を開けると、そこには彼女がいた。表情を伺うも、薄い笑みを浮かべているだけでそれ以上は読み取れなかった。

「ご、ごめん」

 咄嗟に出た言葉は謝罪だった。何の意味もない、そんな形だけの言葉。

彼女が僕に求めている言葉があるとしたら、絶対に今のような言葉ではないのだろう。そして僕には彼女の求める言葉を見つけられない気がした。

 彼女と見つめ合うことが辛くて、彼女の背後を伺うと先ほどの男たちの姿がなかった。大人しく立ち去るようならそもそも話しかけたりしないはずで、なんとも違和感がある。

そして、鼻につくにおいがする。

「あの二人組は、どこへ」

「そんなこと気にするくらいなら、目をつぶらずにずっと見ていたらよかったのに」

 僕の質問へは直接答えず、返された言葉は僕の胸に引っかかる楔のようなものだった。

僕にそう言った彼女の表情は呆れ半分、そして残り半分は見慣れた笑みを浮かべているようだった。今、彼女が笑っている理由は分からなかった。

負い目もあって僕が彼女にそれ以上聞けずにいると彼女が何かを手渡してきた。

「これ」

 ヘルメットと、小型のマイクのような機械、インカムとでも言えばいいのか……それを手渡してきた。ヘルメットはともかく、もしかしたらツーリング中に会話をするためのもののように見える。

「別にあんたに男の子みたいなことの期待はしてないから」

 けどね、と言って、

「ここで目をそむけた分だけ、これから私に向き合ってもらうわ」

 具体的に言ってくれ、なんて言葉をはさめる雰囲気じゃなかった。

この時に限っては彼女の表情から笑みが失せている。瞳には僕の無粋な言葉を許さない意志を秘めているようだ。

 それだけ言うとバイクのある方へ歩いていく。なんとなく視線を掌のインカムに向けると、嗅ぎなれない匂いがして気持ちが悪かった。

何かがうまくかみ合わない、そんな気がする。

彼女の発言には真意を読み取れないものも多く、それ以外にも納得いかずに引っかかり続けているものが多い。

 ただ、

「話すことがあるなら走行中に、か」

 何もかもが自分を置いておきながら進んでいるようだ。そして、その動きの中心に彼女はいるのだろう。

僕の足は彼女を追いかけながらも追いつける予感はまるでしない。先ほどからする異臭も相成って僕は自分がどこにいるのかわからなくなっている。



「さっきの質問、特別に答えてあげる。二人組なら、死んだわ」

「は?」

 バイクに乗って高速道路へと合流し、ツーリングが再び始まってすぐそんなことを言われた。さっきの二人組――恐らく彼女にからんでいた二人組のことだ。それが……死んだ?

何かを聞こうとした、しかし彼女はつらつらと話し続ける。表情を伺うすべはなく、ハンドルを握る後ろ姿だけが見えていた。

「昔からそうだったのよ。私の近くにいる人はとにかく死んでしまう。それも私が望めばさらに早く死ぬ」

 ……何の話をしているのだろう。冗談にしか聞こえない。

「あの二人組もその辺の物陰で死んでたわ。あんたが助けに来るならそれでも殺す必要もなかったけど、しなかったからね」

「冗談だろ?」

 ついこぼれる言葉はやはり自己保身でしかない。それでも……信じたい言葉ではなかった。それに信じようがない。

人が死ぬとか死なないとか、何の話をしているんだ彼女は。そんな死神のようなことができる人間なんているはずがないのに。

もし彼女の言葉が本当だとすればそれは、あの二人組は僕のせいで死んだようなものじゃないか――――。

いや、そんなはずはない。そう思いたい。

「僕を慰めて、責めて、いるつもりか? チンピラにからまれてるのを助けられなかったことを誤魔化そうとしてくれるのか?」

 そうであればいいと心から祈っていた。そうでなければ僕の心に大きな亀裂が生まれてしまうことはわかっていた。

「だったら証拠を見せてあげるわ。それなら納得できる?」

「それは」

 言葉をつづけることはできなかった。とても信じられないこととはいえ、もし本当だったらという思いが僕の言葉を喉元でつっかえさせる。

「……あんた、今夜私たちが通ってきた道の近くで事故が起きたのは知ってた?」

 事故、と聞いてすぐに思い浮かべたのは電光掲示板に刻まれていたニュースだった。そうだ、確かあの現場は僕らが一般道から高速道路へと入っていった場所の近くだった。

時間を確認した時に僕はそれを見つけていた。初めてのツーリングともあって鋭くなった記憶力はそれをしっかり覚えていた。

そして、すぐあることに気付かされる。彼女の言わんといていることを。

「それを起こしたのが、君だと?」

「その通りよ」

 馬鹿な、と思う。その思考の反面納得している自分がいたような気がした。元々、僕の手を引いて夜の高速道路へ招く少女が真っ当であるはずがない。自分とは別の世界にいるような少女がどれだけ特異でもおかしくない。

そんなことを考えてしまう。

でもそんなことは僕の小さな主観的な納得でしかない。普通に、常識的に考えてそんなことはありえない。少なくとも僕の冷静な部分はそう訴えている。

「……偶然じゃないのか」

 信じられない……信じたく無いものを否定しようと、僕は何にもならない言葉を紡ぎ続ける。何かが可笑しい、そして自分が間違っているわけではないはずだ。それなのに彼女の前では自分を信用できなくなってしまう。

今、僕の常識がだんだんと裏返っていくのを感じていた。

「偶然であろうと必然であろうと、事故で多くの人が死んだことに変わりはないわ。それこそあんたが信じようが信じまいが」

 ただ、彼女は続けた。

「私が生きている限り、余計に……多くの人間が死に続けることになる」

 彼女がそう言いきった瞬間だった。爆音が僕の背中のほうから轟いた。金属が、ガラスが、何もかもが紙屑のようにまとめて潰れたような音だ。後ろを振り向くとテレビの画面越しでしか見たことのないような横倒しとなった車が目に入った。

そして、突然の事故に対応できずその車両のすぐ後ろを走っていた車もその惨劇に巻き込まれ、そして破壊される。

不思議なことにまったくその車両と関係のない、別の車線の車すら最初に破壊された車に近づいていく横転し、破壊を拡大していった。火炎と悲鳴と破片が一種のブラックホールのように周りの車を吸い込んでいく。

ヘルメットやバイクの移動速度のせいで聞こえないだけで多くの人間の悲鳴があそこには満ち溢れているのが見て取れる。

これを、目の前の彼女が――――あんなに笑ってばかりいたような彼女が、起こしたことだと?

「君がやったのか……? その、人が死ぬ力で、人を――――殺したのか」

 ワイドショーなどが話のタネにする殺人事件では、犯人に何かしらの事情があって大体は納得できないものの理解できなく無いものもあった。

けれども、彼女の場合は全く違う。

納得とか、理解とか、そう言った次元は無関係だ。

「殺す必要なんてなかった、だろう」

「今のは私の意思じゃないわ。それこそ偶然死んだだけ」

 バイクが車線に沿って曲がっていくと無機質な高速道路の壁によって、事故現場の光景をシャットダウンさせてしまう。その途端に僕には先ほどの光景が夢のように思えた。

けれど、現実だ。

「一日に何度か、こうなるの。そして多くの人が死ぬわ。加えて悪いことに私がその「死」に巻き込まれることはないみたい」

 声に感情は籠っていなかった。最早彼女にとって、そういう世界が当然のことなのだろう。そして、彼女はきっと僕の住む世界にやってきたことなんて生まれてから一度たりともないのだ。

「…………そうか」

 淡々と自分のことを離す彼女に僕は何も伝えられない。いや、僕が言葉を選ぶ準備をさせてもらえたとしても絶対に僕は適切な言葉を紡げない。僕の言葉では彼女には届かない、そんな予感があるからだ。

そして、彼女が僕にさせようとしていることもなんとなくわかってしまった。



それからしばらく無言でバイクにまたがっていた。あれ以降事故は起きず、一見すれば普通のツーリングだった。

そして今、目的地の海へと着いた。

空は軽く白んでいて、夜明けが近づいていることを予感させていた。冬の早朝ということもあって人の姿は僕たち以外に見えない。

適当なところにバイクを停めててすぐに彼女は走り出してしまう。ヘルメットも投げ出して、まるで子供のような様子だった。

「はーやーくーっ、夜が明けちゃうわよ」

「……ああ」

 夜なんてさっさと明けてしまえばいいのに、今の僕には心からそう思える。家出をしたのも、この少女と出会ってしまったのも全てはこの夜が始まったのが悪い。

ずっと明るい世界で生きていたい。けれども僕にはそんなことはできなかった。

少し歩くとすぐに砂浜に出る。歩く力を奪おうとする砂の上を、彼女を追って歩いていく。決して彼女の足跡を踏まないように歩いた。意味はない。

「私初めて海に来たわ。波の音も、潮のにおいも、想像と全然違うのね」  

 笑ってそんなことを言う彼女。

「そうか」

 短く答える。

彼女は僕のそんな反応にすこし落ち込んだような表情を見せた。そんな顔を見ても僕には罪悪感は湧かなかった。僕にはもっと悩むべきことがあったからだ。

空を見上げる。空の一部に桃色が射し、夜明けの直前を伝えていた。

「……期待、裏切っちゃった?」

 彼女はそんなことを聞いてきた。浮かべている表情には申し訳なさそうに、それでいて笑っているものだった。

彼女はいつもも笑っているのだろう。そして、その笑顔の裏には僕には想像もつかないような感情が渦巻いているように思える。

「どうだろう」

 そう答える。

「私があんたを選んだのは、あんたが何か日常に変化を求めているようだったから。逆に言えばあんたと似たような奴がもしいたら……そいつでもよかった」

 きっと、僕に似ている人間なんてどこにでもいる。珍しいことではなくて、そしてそれは僕が普遍的な人間だといっているのだ。

悔しいとは思わなかった。今夜の出来事で僕は自分に何かを見出すことなんてできなくなってしまったようだ。

「凡人で、普通で、そして――――英雄になりたいと思う人」

 それがあんたよ、と彼女は言う。

続けて彼女は言った。

「私は自分では死ぬことができないようなのよ。その上――――私は人を殺してしまう、だから」

 彼女の背後で夜が明ける。灼熱を思わせる黄金が、彼女の後光のように場を照らした。そしてその光は旅のこの先がないことを示していた。

 私を殺して英雄になって、彼女はそう言った。




英雄、良い響きの言葉だと思った。

もしそんなものが実在していて、僕がそれになることができるなら僕を取り巻くヘドロのような日常も一蹴できるだろう。

その気高きブレイクスルーは僕を全てから解放してくれるに違いない。

けれども、

「……無理だ。僕に人なんて殺せるわけがない」

 彼女が僕に何を求めているかなんてわかりきっていることだった。そして、僕がそれをしようとすれば彼女は抵抗なんて一切しないことだろう。

けれど、できない。

「私一人を殺すだけで何人の命が救われると思ってるの? 私を殺すことが正しい、あんただってわかるでしょう?」 

「正しいとか正しくないとか、そういうことじゃないんだ。そんなこと一切関係なくて…………怖いんだ」

 僕が彼女を殺すことで僕の目に見えない所で多くの人間が救われる、それは間違いないとはわかっている。

けれども、そのために僕は人を殺す必要があるのだ。

具体的な何かがわかっているわけではない。ただ、僕にはその理屈による一線を超えることができないのだと悟っていた。



 初めて彼女に出会った時、彼女は僕を非日常的な世界へと連れていってくれる奇跡のようなものだと思っていた。

けれど彼女は僕にそう思わせたかっただけだったのだろう。すべては、ここで自分を殺してもらうためだけのことだった。

 僕が今抱えている思いはそういった期待を裏切られたからじゃあ絶対ない。ただ、許せないことがあって、それを彼女が納得してくれない故の物だ。

そんな僕の言葉を、

「そう」

 彼女は短く、つまらなそうにそう言っただけだった。そこに特別な感情はなく、笑顔すらその名残も残らないほどに消えてしまった。

僕の思いなんて一割も伝わっていない。もしかすると僕の思いなんて刹那的な衝動にかられた、うわべだけの物なのかもしれない。

ともかく彼女の意思は一切の変化がないようだった。

 彼女は言う。

「別に気を落とすことなんてないわ。……これが初めてでもないの。君みたいな人を見つけては何回かこうやってるわ」

 彼女の言葉は僕に、自分を特別だと思うなと告げていた。僕はそれに傷つきはしなかった。むしろ深い納得だけが残っているように感じた。

「……でも、期待してなかったわけじゃない」

 彼女は続ける。

「自分を殺してもらうために、私は夜の街で退屈をしていたあんたを乗せて、夜明けの海にまで来て……精一杯あんたの背中を押したつもりだったわ」

 僕が非日常という雰囲気に飲まれて彼女を殺せるように、彼女はそのためだけにこの風景を見に来たと言っているのだ。

 それを知った途端、足元の砂浜が僕を蟻地獄のように沈み込ませようとしているように思えた。

彼女の表情も初めて出会った時からずっと保っていた強さが綻びて、儚げにその姿が見えていた。

「これじゃあ、また人を殺さなくちゃいけない」

 どの口で言っている、そう彼女に言いたくなるような言葉だった。自分の都合で人を殺したような人間の口から出ていい言葉ではない。

けれども、その彼女の、どこか潤いのあるようなその瞳を見るとそれを言うことはできなかった。

訳が分からない。人の命なんて何とも思っていないと思っていた彼女が、そんなことを言いだすなんて理解ができない。

 ただ――――それは僕に走ることのできない領域の話だと分かっていた。少なくとも、彼女を殺してやることができない僕には永遠に分からない。

彼女の瞳から、涙がこぼれ落ちた。

それが僕には何かのタイムアップのように思えた。



「ごめん」

いくらか時間が過ぎて、いたたまれない僕はそんなことを口に出していた。おそらくそれは彼女の殺して、あるいは救うことができなかった罪滅ぼしのような言葉だった。

僕の声に彼女は顔を上げてこちらを見た。

その瞳には黒い感情がにじんでいた。

「…………今更そんなことを言うなら、殺してくれればよかったのに」

 彼女は言う。

「許しを請いて、それで私にどう感じてほしいの? あんたが良い人間だったと思わせたい? それとも私に希望でも持ってもらいたいの?」

 それは、と言おうとしてその先に言葉がないことを悟る。僕にはただ彼女の言葉を受け入れることしかできない。

「普通の人生が嫌だ、そんなことを思いながら英雄になることができるのになろうとしないなんて。そんなの許されていいことじゃない」

 ――――中途半端なのよ、あんた。

そんな端的な言葉、彼女にとって大した意識をしたわけでもないであろうその言葉は僕の悪天を的確に責めていた。あるいは、僕が目を逸らしていたことを確認させているようでもあった。

 何かを言うべきだ、そんな考えはあったけれども僕は自分の言葉が如何に無駄で、意味が無いものなのかを知ってしまった。そんな僕に何かを言いだすことはできなかった。

体が、心が凍り付いたように。

ただ彼女を言葉に耳を傾けた。

「私はあんたが駄目なら……また別の奴を連れてきて、私は繰り返す。けど、その間にも人が死んでいくの」

 ――――あんたのせいで

彼女が最後に浮かべた表情は笑顔だった。けれども、そこに温かさはなく氷柱のような鋭さを持っていた。


瞬きを一つ挟むと、もうそこに彼女の姿はなかった。しかし、立って彼女を探す気にはとてもなれず砂浜の上でうずくまり続ける。耳を支配する波の音が、僕しかここにいないことを一層教えているようだった。

今日が僕にとって何かを変えられる特別な時間だったのだろう。

彼女を殺すことができなくても、彼女を変えることや、自分が変わることができたような夢のような時間。

しかし、それはもう過ぎ去ってしまった。僕は何も変わらず、彼女も今にも僕のことを忘れてしまうだろう。

そして彼女はきっと今日も人を死なせ続ける。そして、その罪は今日殺せなかった僕の背にものしかかることだろう。

ふと、死にたいと思った。

しかし、彼女はもういない。僕は自分の手で死ぬこともできる気はしない。これは不変の事実のように思える。

僕の目の前に残ったのは現実的な現実だけだった。

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