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19、記号と人間と情報処理。

 20、


 唐突ですが今回は、


『記号と人間と情報処理』


 という題目で語っていこうかと思います。


 ていうか、前々から書きたかったのですよ。

 

 『面白さは遺伝子に聞け』とか、

 『僕なりの武士道』とか、

 『現実世界での情報処理』とか、

 『記号と人形』とかみたいなことを。


 別段、何か主張したいとかいう欲求なのではなくて(いや、そうかも?)、どうしてみんなそこに話が発展しないのだろうと思うことが結構あるんですよね。

 だからかな。

 

 ☆☆☆


 そこで一番初めの話題は、


『エンターテイメントと記号と情報処理としての公式』

 

 みたいにして僕なりに語ってみようかと思います。


 ぶっちゃけエンタメって、どのジャンルにしても登場人物というのは“記号”で出来ていると思うんですね。


 ここで言う“記号”っていうのは、昨今でいうところ、


『ツンデレで長い髪をツインテールでまとめた美少女』


 みたいな定型のことを言います。


 こういうことを書くと、新しい物だけがそうだと思う人も多いでしょうが、実は未だに続く古典芸能しかり、エンタメ小説しかり、そういった記号的登場人物の集合によって成り立っています。


「なんだよ、そんなことを今さら!」


 なんていう人もいるかと思います。その通りです、こんなの今さらなんですけど、そこで悩んでしまう人も少なくないようなのですよ。


 ☆☆☆


 例を挙げればキリがないのですが、推理小説などに登場する『探偵』なんてのは、いかにもな役どころを持つ紋切り型の登場人物なわけで、


 現実の探偵とは違い、彼らの物語での役目は、


『物語中に起こった難題に対する“情報処理係り”』なわけです。


 現実の探偵さんは、情報処理とまではいかず情報を集める係りなんですね。その時点でフィクションとしての記号を意味しているわけです。


“現実での情報処理”という話題は、別の機会にやりたいのでここでは詳しく申し上げませんが、


 数多の古典芸能、つまり“能”や“歌舞伎”“浄瑠璃”、さらに“落語”なんかも、それぞれの登場人物が“記号”で出来ていることはご存知なはずです。


 “能”であれば、その登場人物によって決まった面を被ることになる。その面には意味があって、年齢や生い立ち、またその人物の背景などが設定されています。


 古典落語なんかで言えば、“与太郎”や“親方”、“庄屋”さんから“町役”、“お侍”などなど、そこに登場する人物の役どころが噺によって多少違いますが似たような動きをするのです。


 ☆☆☆


 とはいえ、だからと言ってそれが皆同じ話に見えてしまうかというと、それは大間違いで、


 それぞれの落語家さんが、同じ話をしても微妙にそれぞれが違ったりなんかする。

 

 歌舞伎なんかも同じで、演じる役者さんが違えば、その役の“それ”が違って見えるということなのです。


 クラシック音楽などでも、詳しい人はその楽曲よりも“指揮者”や“演奏者”の違いを聞き入るのだそうで。


 ☆☆☆


 つまりは記号としてあるものを、どれだけ表現するかがエンタメの核心であると思うのです。


 ☆☆☆


 先ほど“浄瑠璃”を挙げましたが、そこまで伝統的でなくてもそれなりの人形劇をやるとします。


 人形劇の人形とは、言わばそれなりの役どころを持った“記号”なわけです。


 その“記号”たる人形を、


「どれだけ生きているように観客に見せられるか?」


 がポイントであると思います。


 動きがぎこちなかったり、台詞が棒読みだったり、ストーリーを悪い意味で破壊してしまったりすれば、観客は言わずもがな興ざめしてしまうわけです。


 つまりこれは、エンタメ小説に登場する人物も同じことで、

「台詞が棒読みだったり」

「ぎこちなかったり」

「ストーリーとはまったく脈絡のない主張」

 などが頻繁にでてきてしまうと、読む方は面白くなくなってしまうのです。


 ☆☆☆


 多分、これを読んでいる人の多くが、子供のころ人形遊びをした経験があるでしょう。


 エンタメはその延長線上にあるのだと僕は思っています。


 しかし、それが第三者の心を満足させられるものか、そうでないものか、の違いがここにあるのだと思います。


 そして、「どれだけ“記号”たる“人形”が生きているように見せられるのか?」が重要になってくるのだと思います。


 ☆☆☆


 文学やノンフィクションというのは、ある程度のモデルや人物形成が元にあって書かれている場合が多いようですが、エンタメに至っては、


 “ある程度のストーリーに対しての役どころ持った人形に、人格という色を塗りこんだ、言わばアンドロイドに近い物”


 だと僕は思っています。


 こう言ってはなんですが、ときどきギクシャクしたロボットばかりが台詞の言いあいっこをしている何かを観たり読んだりなんかしちゃいますよね。

 まだそのロボットに魂が込められていないっていうか。


 ☆☆☆


 実は割り合い、古いエンタメ映画なんかを観るとそういうカクカクした記号的ストーリー構成の物が多かったりします。

 だけど、なぜか演じる役者さんの“実力”と言うのか、元々持っている“人間性”が濃いからなのか、前述した“記号的登場人物”であるはずなのに、物すごく魅力的に仕上がっていることに驚かされるのです。


 ☆☆☆


 現在のテレビドラマや映画で演じる役者さんの主流が、“記号的な演技”なのが分かります。

 

 理由は簡単で、どうやらその方が見る側にとって難しくなくてウケるからだと推測できます。


 例を挙げればキリがないのですが、某人気番組の『相○』で言えば、


 主人公の水谷豊さんなんかは、あれだけの実力を持ちながら、上記のドラマではとにかく“記号”に徹している。


 僕は、あの番組が始まった当初はそれなりに観ていたのですが、どうにもその辺りが耐えられなくて(※水谷さん以外の刑事役の役者さんに至っても同じ)、数回で観るのを止めてしまいました。


 役を演じているのではなく、役に操られているような気がして。


 ☆☆☆


 しかし、昨今のエンタメ番組を見ると、何かのキャラクターを記号的に演じているのは映画やドラマのみならず、報道であったりバラエティであったりしても同じようなことが言えていると思うわけです。


 どうやらその方が、何かしら何かに都合が宜しいんでしょうね。


 ☆☆☆


 まあ、話は逸れましたが、記号で育った我々現代人は、記号で記号を演じられると心地よいと感じてしまう人のほうが大多数なのかもしれませんね。


 昨今言われる“中二病”なんてのも、記号に自分を当てはめる行為の一つだと思うのですが、正直これは仕方が無いことだと思います。


 というのも、まだ人格形成の未熟な年代に、確固たる個性を求めるのは難しいと思うんです。個体差がありすぎて。


 前にも申しましたが、戦後の教育なんて“それぞれの個性を伸ばす”なんてどこ吹く風が建前の“社会主義教育”の延長線上を辿ってますから、どの人も、


「個体差なんてない」


 といった幻想を心の奥底にインプットされてしまっているみたいなようです。


 しかし、現実は個体差だらけ。性別、身長、体重、髪の毛の数……えーと、下世話な言い方であればアレの大きさからナニの感じ方まで。


 そういう現実と幻想のギャップが、大人になっても把握できないのが今の日本人全体に言えることだと思います。


 こういうことを言うと、


「それは西洋の個人主義だ」


 とか、狂ったことを言い出す人がちょくちょくおられるのですけれど、僕から言わせれば、


「それはそれ、これはこれ」。


 個人主義とは全く違います。


 ☆☆☆


 その辺りはどうやら、


「日本人の共感しやすい能力」     


 を上手く利用されている節が見られまして、


 この間の『体罰告発動画』事件でもそうでしたが、どうしてもアレを見てしまうと、


「体罰反対!」


 となってしまうのは、お人よしで情け深い日本人なら言いかねないこと。


 しかし、そういうのは僕は危険であると思うのです。


 その事件、事象には、その事柄に関わった人でしか分からない原因と経緯があるわけです。


 あの数分の動画を観ただけで全てを判断できるほど、我々にはご大そうな能力を有してるはずがない。


 なのに、それをギチギチに法律化して、

「~しなければならない」

 という外側の枠組みを決め込んだら、それこそストレスにストレスを加算するだけの世の中になってしまう。


 本来なら、しつけだとか修身だとかの内面での教育が成されていれば、そこまで法律や条例を増やす必要がないはずなのに。


 無論、先天的にどうしようもない不可避な部分が人間にはあるし、個体差もバシバシ現実にあると言うことも知っておく必要があるわけで。


 つまり、この戦後の日本は洗脳教育によって、幻想の上に成り立っている部分が多々あるので、記号的にならざるを得ない部分があるのだと思うわけです。


 ☆☆☆


 うわ、なんで俺こんなこと書いてんだ?


 まあ、つまり記号的ってのは、思考経路を減らす意味も持つって事ですよ。


 思考経路を減らすってことは、『現実での情報処理能力』がうまく行かなくなる、ってことで、


 次回は『現実での情報処理』とは?


 の話なわけなのです。


 こんな一人のおっさんの何の根拠もない持論に最後までお付き合い頂き、本当にありがとう御座いました。


 では。

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