12、視覚的雰囲気作りの効果
以前に、とんでも占いをやると公言しておきながら、未だに手つかずな状態であります。
片方の連載も少し滞っていておりますのは、雰囲気作りにもう少し凝りたくて様ざまなことを考えていたら、書いた物を消したりなんだりする破目になっておる次第であります。
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そうそう、話は変わりますが、T君テレビ観たよ。
昨日、世界パンティモンティ愛好同盟(※略してP機関)の総帥、パンティ穴戸氏からの報告で、クラスメイトだったT君が我々の住む(某F県の)地方放送局の番組に出演するという旨を耳にしたもので、それを先ほど視聴いたしました次第であります。
震災後のとある家庭の様子や、お産育児に関わる状況などを真面目にドキュメントしたものです。
しっちゃかめっちゃかだった学生時代の我々とは違い、生真面目だったT君らしい部分が垣間見えた感じが致しました。
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と、そんな地方っぽい内輪ネタは置いといて。
今日は視覚的な雰囲気作りというのを考えてみようかと思います。
というのも、ぼくは白黒時代の映画がなんとなく好きです。
いや、別に今の映画の演出が劣っているだとかを言いたいのではなくて、
「どうして昔の映画は(※ここで言う昔の映画というのは、ぼくが生まれる前の1960年代から前の時代の物を指します)、こんなにもCGなどの技術もないのに迫力があったのだろう?」
という疑問が脳裏に過ぎったから、それを考えてみようというわけです。
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無論、CGはもちろんのこと特殊技術も確立されていない時代において、どれだけ迫力あるものを作り出すか、という演出は並々ならない創意工夫があったと思われます。
その中で白黒時代のフィルム映画で際立つのが、あの特有の、
『わしゃわしゃ』
した感じ。
パニック映画の基礎中の基礎である初代『ゴジラ』なんかがその典型で、
ゴジラの街を破壊するシーンと、それから逃れようとする人々の群れ。
そして、ゴジラと対峙するために試行錯誤する人々のゆれ惑うシーンは、かなり対比的です。
いわゆる“緩急”が凄まじい、良い意味での心理的効果があるわけです。
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白黒時代の映画、特に日本の映画は、茶の間で登場人物が話し合うシーンがとても秀逸で、静寂の中に人々の葛藤や思惑が清流のように交錯している様が垣間見られたりする。
その思惑同士が、スペクタクルな場面に移行して解放されるから、なかなかの迫力をもたらす。
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また、ある時代からの映画と昔の映画の集合シーンを比較すると面白いことが分かる。
古い映画は、狭い画面に人々がぎゅうぎゅうと押し込まれていて、それが視覚的に迫力を増していることが分かる。
カラー映画や特撮、CGが全盛になってから、僕自身は個人的に何か物足りないものをかんじていたのだけど、それは、
『密集した人の気配』
だったのだと、改めて感じたのでした。
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60年、70年前の時代は、今よりも人口が少なかったのにもかかわらず、人の使い方が上手だった。 そんな感じかな。




