第65話 カタストロフィ
手を伸ばせば簡単に届く距離。
レンはきっと、あの日の屋上の続きを望んでいるのだろう。
そらされることのない闇色の視線に、ハルはそっと目を伏せる。
「……わたしは、キューブを守るよ。いままでだってそうしてきたし、これからもきっとそう……」
「なら……!」
「だけど、レンとは一緒に行けないよ」
哀しそうに笑ったハルに対して、レンの顔から笑みが消えた。
それこそ裏切り者を見るかのようなまなざしは、怒りと憎しみにあふれている。
「お前も、俺を捨てるんだな……」
レンが両手で剣を構え直す。
彼は本気でハルを殺しにかかるつもりらしい。
これまでと比べものにならないほどのスピードで、レンはハルとの距離を詰める。
ぶつかりあった剣身が、甲高い音を響かせた。
「たしかに! 人間はずるくて、自分勝手などうしようもない生きものだよ。だけどそれでもみんな、生きようと必死にもがいてる! わたしは人間に生まれてよかったと思ってるし、ここには大切なものがたくさんある!」
ハルは眼前に振り下ろされた刃を受け止める。
重たい一撃だった。男女の力の差では、やはりハルのほうが押し負けてしまう。
「わたしは! 人間を守りたい!!」
力ずくで押しきろうとするレンの力を利用して、ハルは後方に跳躍して距離を取る。
体勢を立て直し、まっすぐにレンの姿をその瞳に捉えた。
「お前に剣の扱い方を教えたのは、誰だかわかってるのか?」
ハルの意志をあざ笑うように、レンは短く息を吐く。
「お前に、俺は殺せない」
「そんなの、やってみなくちゃわからないでしょ?」
なおも彼女を挑発するレンに、ハルは口元をゆがませた。
次の瞬間、ハルが動いた。
手にしていた剣を粒子に戻し、無防備な状態のまま真正面からレンに向かっていく。
なんの躊躇もなく、ただまっすぐにレンを見据えて。
「バカが! 気でも狂ったか!」
レンは手にした刃でハルを迎え討つ。
ひと思いに彼女の体に剣を突き立てた。
切っ先が赤い液体をしたたらせながら、ハルの腹部を貫通する。
「お前なら、わかってくれると思っていたのに……残念だ……」
最後のとどめとばかりに押し込まれた刃に、ハルの体はレンに寄りかかるようにして動かなくなる。
ハルの体を貫いた剣が、紫色の粒子となって散っていく。
噴き出した鮮血が、二人の体を赤く染めていた。
崩れ落ちるハルの体を引き寄せて、レンは一瞬だけ表情に影を落とした。
だがそれもつかの間のことで、彼はゆっくりとハルのキューブドロップに唇を近づける。
「……っ、やっと……つかまえた……」
「っ!?」
深い吐息とともに吐き出されたつぶやきに、レンの動きが止まる。
瞬間的に身の危険を感じハルから離れようとするレンに手を伸ばし、ハルは彼の頭を腕の中に抱き込んだ。
「もう、いいよ……レンも、苦しかったんだよね? もう、がんばらなくてもいいんだよ?」
「っ……!」
「ずっと、ひとりで寂しかったんだよね?」
ハルにはわかっていた。
彼が十年以上もの長い歳月を、たったひとりで孤独感に耐えていたことを。
スペランツァとしての責務と、最年長としてのプレッシャー。
周囲の期待が大きくなるほどに、彼はその重責に押し潰されそうになりながらもなんとか体裁を保っていたのだろう。
望まぬまま被験者として生きることを余儀なくされた彼の葛藤も苦悩も、すべてキューブを通して伝わってきていた。
それこそ自身でペッカートを無限に作り出せるほどに、彼はずっとひとりで、暗い闇の底でもがいていたのだ。
誰にも理解されず、人間を憎むことでしか自我を保っていられなかった。
彼もまたペッカートと同じように、キューブに救いを求めていたのかもしれない。
「もう、終わりにしよう?」
「くっ、やめろっ……! 離せ!!」
レンは必死にハルの腕から逃れようとするが、なぜだか力が入らない。
言うことを聞かない自身の体に、レンはこれまでに感じたことのないほどの恐怖に見舞われた。
自分の中から憎悪が消えてしまうのが、怖くて怖くてたまらない。
「っ……! ハルっ……! 頼むっ、離してくれ……!」
「大丈夫だよ。レンは、ひとりじゃないから」
凍てついた心を溶かすように、レンの体をぬくもりが包み込む。
拒絶したいはずなのに離れがたい。
相反する感情のせめぎあいに、レンの表情がゆがむ。
「全部、わたしが連れていく」
ハルがつぶやいた瞬間、どこからともなく炎の龍が姿を現した。
無数の龍は縦横無尽に宙を舞い、次々と無表情の黒い塊を飲み込んでいく。
「やめろっ……! やめてくれっ……!!」
苦痛に満ちた声をしぼり出して、レンは目の前のぬくもりにすがりついた。
消滅していくペッカートの数に呼応して、彼の中から負のエネルギーが浄化されていく。
長年かかえてきたそれを手放してしまうのが、あたたかい気持ちに満たされていくことが、レンにとってはどうしようもなく悪いことのように感じられて仕方がなかった。
「ハルっ、怖いんだ…………俺は……! ずっと、怖かったんだ……!」
「がんばったね、レン……大丈夫……一緒に行こう?」
「っハル……ハルっ……!」
まるで迷子の子どものように涙を流すレンを、ハルは無条件の慈しみで包み込む。
安堵の表情を浮かべて安らぎにも似た笑みをこぼすレンの体が、周囲を取り巻く光に溶け込んでいく。
「もう、寂しくないよ」
断末魔すらも飲み込んで、炎は辺り一面を焼きつくし、一匹、また一匹と、ペッカートは七色の光となって姿を消していった。
気づけば周囲に敵の姿はない。
焼け野原となり荒廃した大地にたったひとりたたずむハルは、糸が切れた操り人形のようにその場に崩れるようにして座り込んだ。
辺りにはペッカートが死したことで発生した有毒ガスが漂っている。
何人たりとも近づくことを許さぬとでも言うように、濃い紫色の霧がすべてを覆いつくしていた。
ハルは、赤い水たまりに座り込んだまま動かない。
ぼんやりと、真っ赤な水面を見つめるうつろな瞳になにを映しているのか。
全身血濡れのその姿は、今にも消えてしまいそうなほどに儚く、危うい雰囲気をまとっていた。
ハルが静かに顔を上げる。
ふんわりと微笑むと、その体は本人の意思に反してゆっくりとうしろに傾いていった。




