第45話 ボタンホール
◇◇◇
「……今日も来てたのね」
カルテを手に病室のドアを開けたマリアは、視界に入ったうしろ姿に小さく息を吐いた。
ベッドのそばのパイプイスに腰かけるキョウヤに、いつもの覇気はない。
丸まったままの背中が、寂しげにそこにいた。
「ハルの点滴、交換するわね」
「…………」
無言のままのキョウヤの横顔をちらりと盗み見て、マリアはベッドの窓側へとまわりこむ。
(あれからもう、十日も経つのね……)
静かに横たわるハルの頬を、マリアはそっ、となでた。
(あんな無茶をさせたのは、わたしたちのせいね……)
ミズホを討ったあの日、医務室に担ぎ込まれたハルは生死の境をさまよったと言っても過言ではない。
懸命な治療もむなしくなかなか安定しないバイタルに、肝を冷やしたのはマリアだけではなかったはずだ。
スペラーレのいない状態での限界点突破。
ハルの体に急激な負担が一気に押し寄せたのは言うまでもない。
最悪の場合、その負荷に耐えきれず命を落としていたかもしれなかった。
(一命を取り留めたのは、奇跡だわ……)
だが、ハルの意識は戻らない。
真っ白な室内で穏やかに眠る彼女は、いくつものコードに繋がれていた。
呼吸を維持するための酸素マスクや腕の血管に通された点滴の針が、見慣れた光景になってしまった。
血の気の薄い顔色は相変わらずで、腕に残った注射針の痕が痛々しい。
静寂すぎるほどの室内で、ベッドサイドのモニターから発せられる電子音が無機質に拍を刻んでいた。
「…………なあ」
ぽつり、とキョウヤが静かに声を発した。
「ハルは、いつになったら目を覚ますんだ?」
「……わからないわ」
眠るハルから目をそらさずにそうたずねるキョウヤに、マリアはそっと目を伏せた。
今のところ、ハルの命に別条はない。本当にただ眠っているだけなのだ。
しかし、いつ目覚めるのか。
はたまた意識が戻ることはもうないのか。
こればかりはマリアにもわからない。
「キョウヤ、あなた今日も仕事でしょう? 遅れないようにね」
「……ああ……」
手早くハルの状態をカルテに書き込んだマリアは、一度もハルから視線をはずさない背中に向かってそう言うと、静かに部屋をあとにした。
室内に再び無機質な静寂が訪れる。
握った手だけが、やけに熱を帯びていた。
「……早く起きろよ、ハル」
祈るようにしぼり出した声は、手のひらに伝わる彼女の鼓動に飲み込まれていった。
「エリカのせいで、来るのが遅くなっちまったな」
足早に廊下を歩くシュウは、やれやれと言わんばかりに深々と息を吐いた。
つい先ほどまでエリカの相手をしていたその表情には、どこか疲労がにじんでいる。
療養名目の非番の数日間をべったりと貼りついて離れないエリカに適当な言い訳をして、ようやくひとりになれたところである。
邪魔されたくないとばかりに周囲を警戒しながら、シュウは病室のドアハンドルに手をかけた。
「っ……!?」
思いがけず目の当たりにした光景にシュウは目を見張った。
突然のことに思考が停止し、足が動かない。
「……ハ、ル?」
眠り続けていたはずのハルが、上体を起こしてベッドの上から不思議そうにこちらを見ていた。
「シュウ……? どうしたの?」
「っ……!」
彼女の声を聞いたのが、ずいぶんと久方ぶりのような気がした。
シュウは目頭が熱くなるのを感じながら、それをごまかすかのように一目散にベッドに駆け寄る。
存在を確かめるように、シュウは少し痩せてしまった彼女の体をまるごと腕の中に抱き込んだ。
「ハル! 平気か!? 大丈夫なのか!?」
己の身を案じるシュウの勢いに多少気圧されつつも、ハルは小さくうなずく。
「安心なさい。どこも異常ないわ」
カルテを片手に様子を見守っていたマリアが、珍しく優しげに微笑んでみせた。彼女の表情からも安堵の色がうかがえる。
「じゃあ、わたしはいったん席をはずすから。ハル、まだ無理をしてはダメよ?」
「はい……」
「ほらシュウ。ハルが痛がってるわ。もう離してあげなさい」
微笑みを見せたのもつかの間、マリアはいつもの厳しい表情に戻ると、機器を乗せたワゴンを押しながら部屋をあとにする。
マリアの足音が遠ざかっていったのを確認したシュウは、ベッドサイドのイスに腰かけた。
「本当に、もう大丈夫なんだな?」
念を押すように問いかければ、ハルはこくりと首を上下させる。
「うん……ごめん、ね?」
おずおずとそうつぶやいたハルに、シュウは手を伸ばして彼女の両手を包み込んだ。
「謝らなきゃいけないのはオレのほうだ。オレが不甲斐ないばっかりに、ハルを危険な目にあわせた……ごめんな、ハル……」
こんなことで、ハルに強いた負担への罪滅ぼしになるなどとは思ってはいない。
だが、謝罪の言葉を口にしないと、自己嫌悪に押し潰されそうだった。
己の心が弱く不甲斐ないばかりに、力になりたいと願っていたはずのハルを危険な状態に追いやってしまったのだ。後悔してもしきれない。
頭を垂れるシュウに、ハルはふるふると首を横に振った。
互いになんと言えばいいのかわからない。
外の廊下を行き交う人々の声や生活音が、遠くのほうから聞こえてくる。
「……ハル、聞いてほしいことがあるんだ」
シュウはゆっくりと呼気を吐き出し、高揚する心を落ち着かせる。
肺いっぱいに酸素を取り込んだ彼は、目の前で不安げに揺れるハルの漆黒の瞳を見つめた。
「オレを、ハルのスペラーレにしてほしい」




