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結局今回は口頭での注意だけで済ませるという形だった。大体俺の今回のような事例では、犯罪者として引っ立てる明確な根拠条文というか、条例というか、そういったものがないように思う。チンチンを放り出したとかなら、色々思い浮かぶものの、奇声を発して人々の安眠を妨害した、ではちょっと思いつかない。

「畜生、やっぱりあのおっさん、脅しただけじゃねえか」

拘置所にぶち込むぞなんて、そんなハッタリかけていいのかよ。畜生、畜生。

パトカーで自宅まで送るという提案を蹴って、自分の足でピョコピョコ歩く。ドブに落ちた時に、汚水にまみれたのが悪かったのか、左足が痛がゆい。やはり送ってもらったほうがどう考えても賢明だった。突っぱねたのは、警官がそもそも嫌いだとか、遠慮だとか、そういった感情からではない。意地を張ったのだ。子供のように拗ねたのだ。怒られてバツが悪くて拗ねたのだ。大人に怒られるという経験を随分久しぶりにしたが、存外堪えるのはまだ俺が精神的に幼いからだ。だから意地を張った。それを認めないように。気取られたくないから。俺のその態度に、おっさんは「そうか。次やったら容赦しないからな」と警告して署に引き返していった。不貞腐れたような声が出たし、おっさんのその返答も妙に淡白で、意識的にそうしているような気すらして、多分勘付かれている、と思ってしまう。

「ダサい。恥ずかしい。格好悪い」

本当は自分が悪いということくらいわかっていた。いくら不運にもドブネズミに成り下がったとして、それが他の人間に迷惑を掛けて良いということには決してならない。あの若い警官に言った言葉が跳ね返ってくる。論理的におかしいのだ。自分の不幸と他人の不幸に連関性もなにもない。わかっていた。だから大人しく善良な一市民として、やり過ごすつもりだった。それがスマートだし無駄がないと考えていた。なのに、あの警官の言葉についついヒートアップしていた。もしかするとあの場で一番冷静さを欠いていたのは、誰あろう俺自身だったのかもしれない。親のことを言われた。お前が何を知っているんだ、そう思った。思ったが負けだった。

「ああ、もう」

ひとん家の石垣に背を預けるようにして凭れて、そのままズルズルと滑ってアスファルトに腰を下ろした。ケツからひんやりとした感触が伝わる。ケツ伝導というギャグの汎用性に気付く。どうでもいい。

奈々華を、カナやサナちゃんを、守りたいと思ったんだ。それは本当に偽りのない気持ちだったんだ。ガチクズの俺でも、顔も知らない人間の不幸を強く同情は出来なくても、顔も性格も良いところも知っている人間の不幸なんてさせるわけない。あっちの世界には悪意がある。危険がある。腕力くらいしか取り得のない俺が、それすら満足に果たせなくて、彼女たちが悲しむことになったら、それこそ本当に死んだ方がまだ良いほどのウンコだ。だから俺は結構本気でリハビリのつもりだった。なのに俺が悪いのか、と不条理にガキ同然の怒りを抱いた。いや、やめよう。これじゃあの子たちに罪を擦り付けてるみたいだ。

「ああ、畜生」

未熟さ。身勝手さ。突きつけられたらしく、また大声を出したくなった。ダメだ、ニコチンが足りない。イライラする気持ちは、まず一服してから落ち着ける。と、そこで気付く。俺がそもそも転落抽選を受けたのは、そのタバコを取ろうとしてのことだった。

「はあああああああ」

鳴き声のような溜息を吐いて、ぐっと足腰に力を入れて立ち上がった。



家に戻ると電気が点いていた。俺がのろのろした動作で玄関戸を開けると、奈々華が弾かれたような勢いで居間から飛び出してきた。

「どうした? そんな鉄砲玉みたいに勢いつけて」

「どうしたじゃないでしょう? どこ行ってたの? 心配したんだよ。足もまだ治ってないのに、どうしてそうフラフラするのかな。大体出かける時は携帯を持って出ないとダメじゃない。誘拐されたかと思って…… くさっ、くっさ。お兄ちゃんドブ川みたいな匂いがするよ。どうしたの?」

ああ、うるさい。かあちゃんか。

「ドブ川に落ちたんだよ。シャワー浴びるから、ちょっと待ってて」

ノタノタと靴を脱ぐと、ジュグっと水を含んだ嫌な音がした。奈々華がギャーと大きな声を出したかと思うと、ちょっと待っててと声を掛けてどこかへ走っていく。そして雑巾片手に戻ってくる。仕方がないこととは言え、実兄に雑巾で体を拭けとは少々厳しい対応。

風呂から上がって、奈々華に詳しい説明をする。寝付けなくて散歩していたらドブに落ちた。腹が立って世の中への不満を喚き散らした。警察がやってきて捕まった。事情聴取を受けて不問となって戻ってきた。あまり感情をこめずに話した。また怒りが湧いてきて奈々華にあたってしまうようなことがあったら、もう本当にどうしようもないから。話を聞き終えた奈々華はとても残念そうな顔をしていた。とても惜しいところで間違えてしまった生徒を、労わるともなく見る教師のようなそんな目。

「どうしてお兄ちゃんは…… そう……」

「クズなの? か?」

奈々華は視線を逸らす。どうやら当たり。

「いいよ。はっきり言ってくれて。気にしないしわかってる」

逆にいじらしくさえ思った。ここ数日の間で怒涛の勢いで痴態、醜態の限りを尽くした兄を、未だに気遣う素振りを見せるなんて、どこまで殊勝なのだろう。

「足を怪我してからは良い子にしてたのに…… いきなり警察に捕まるなんて……」

「まあ汚名挽回といったところか」

「どうしてそんなことになったの?」

まさか奈々華たちの為に早く万全になりたかった、とは言えない。そもそも足の怪我だって俺の奇行が原因なのだから、恩着せがましい。だから答えずに、奈々華が座る対面のソファーに向かう。

「なあ、奈々華」

隣に座る。奈々華はちょっと挙動不審気味に何と返事する。嫌がっている素振りはない。

「抱き締めていいか?」

「え? ええ! な、あ。私に匂いを移すためでしょう!」

「そうだよ。よくわかったな」

それは勿論冗談で、体を入念に洗った結果、意外なほど簡単に匂いは落ちた。もうドブに落ちた形跡は、明日の朝一でゴミ置き場に放り込まれる予定の俺の着衣一式くらいだろう。眉を寄せて俺を睨むが、口元がどうにも嬉しそうだった。了承と取ってそっと奈々華の体を包む。柔らかい。背中ですらプニャプニャとした男にはあまり付かない肉がついていて、抱き心地が非常に良い。首筋からよくわからない甘い匂いがした。あえて形容するなら和菓子のような、控えめで、だけどどこかほっとするような。しばらくそうしていたくなって、そうした。けど今の状態、カナあたりに見られたら、シスコン、変態とさんざ罵られそうだ。

「もう。どうしたの? なんか子供みたいだよ?」

声が笑っている。時々奈々華の方からおふざけみたいに抱きついてくることがあるけれど、その時とても甘えん坊な子供に懐かれているような気持ちになる。今それを逆に奈々華が感じているんだろう。

「ごめんな」

なんで謝ったのか、自分でも少しの間わからなかった。ずっと考えていて、奈々華とまた一緒に布団に入ったあたりで何となくわかった。両親は困らなくても、いじらしいほど俺を気遣ってくれるこの妹は、きっと俺が居なくなったら困ってくれるんじゃないか、と。罪悪感と照れ隠しと、感謝と、安堵と……

ちょっと今回二話とも字数が多くなってしまいました。読みにくかったかもしれませんが、反省はしてません。

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