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俺の家から少し南に行った所に工場がある。確か空調設備か何かを作っている会社のものだったと思う。まるで刑務所のようにコンクリの高い壁で仕切っていて、中は見えない。何か中で悪いことをしているに違いないと、以前奈々華に話したらそんなわけないでしょうと一笑に付された。まあそれは蛇足で、俺の話に戻ると、そこのすぐ傍を流れるドブ川に滑落した。夜中の三時頃だった。
そんな場所で何をしていたのかというところまで、遡ってみると、リハビリがてらの散歩をしていたのだ。そしてそのミッドナイトウオーキングは実際途中まではすこぶる調子良くいっていた。左足は二日の期間で少しづつ皮が再生してきていて、凝視するとすこぶる気持ち悪いのを除いては、経過は良好だった。そこでリハビリである。奈々華には迷惑を掛けているし、カナには笑われるし、それになにより今向こうの世界に放り込まれでもした日には、皆を守るどころか文字通り足手まといとなるわけである。そこらへんの事情も鑑みての行動だった。
その道程にアクシデントが起こった。くっせえくっせえ言いながらドブの近くを歩いていたときのこと。タバコを吸おうとしてその箱を丸ごと取り落としてしまった。タバコは無事だった。鉄柵の下からドブの方へ転がっていった箱はしかし水音を奏でなかった。ドブを囲うコンクリの途中、出っ張った場所にポテンと落ちていた。ラッキーと思った。無駄にでかい体を地面に這いつくばらせて、無駄に長い手を伸ばせば届きそうな距離だった。体が万全の状態なら確かに取れただろう。どころかとてもイージーな任務であっただろう。
左足の踏ん張りが効かなかった。伸びきった体が一瞬ふわりと浮くのを感じた。飛行機が離陸する時の感覚に似ていた。金玉によくわからない刺激があった。それから体全体が宙に浮く感じがして、目の前がセピアになるほどの強い危機感が本能を揺り動かした。咄嗟に伸ばした手で出っ張ったコンクリの足場に手を掛けた。だけど少し苔むしたそこはずるりと俺の手を避けて、嘲笑うように最後の希望を捨てさせた。幸いなのはその一瞬の判断により頭からの転落を免れたこと。ケツにバットを食らったような衝撃と、バシャンというけたたましい音が俺の鼓膜を震わせたのは同時。俺の体の中から響いたと錯覚したのは、骨伝導というヤツのせいだろうか。いや、この場合ケツ伝導というべきなのかもしれない。
どれくらい放心していたのだろうか。やがて事態を理解してくるにつれ、やりきれない怒りが湧いてきた。何か最後の最後で踏ん張っていた感情の堰が切れてしまったような感じがした。悔しくて腹が立って、俺はその場で大の字になって怒声を上げていた。今となっては何を吼えていたのかは覚えていないけど感情の丈が全て詰まっていたのだけは間違いない。多分「もう殺せよ」とか「俺が何したってんだ」とか「生きててもなんも良いことなんかねえじゃねえか」とか、そこらへんだろう。覚えていないのにわかってしまうのは、俺が今もそっくりそのままの心の声を押さえ込んでいるからだった。
とにかく二十分もしないうちにパトカーがやって来た。近隣の住民が通報したのだろう。夜中の三時にドブの底に横たわって奇声を上げている変質者が居る。至極当然の対応だろう。駆けつけた警官に三人がかりでドブから引き摺りだされ、陸に上がって、即御用となったわけだ。そして任意同行という名の強制連行の末、警察署にやって来た俺は今までの状況説明をそっくりそのまました。
「……俺は悪くないです」
そしてそれを終えて、ドンひいている公僕共にそう言い放った。何も間違ったことは言っていないつもりだった。
「まあ確かにドブに落ちてしまったのは不幸だったけどね。だからって近隣に住宅もあるんだから、大声を出したら迷惑になることくらいわかるでしょう?」
対応している警官は二人。年配の柔和な男と、まだ三十代くらいの少し神経質そうな男。年配の方はマルメガネを掛けていて、ポチャッとした愛嬌のある顔によく似合っていた。そしてそんな二人に豚小屋のように小さな部屋に押し込められて、事情を詳しく聞かれていた。
「……」
実際今の俺にとっては他人の迷惑なんて知ったことかという感じだった。寧ろ掛かればいい。沢山の人に迷惑が掛かればいい。ああ、どうせクズだよ。害虫だよ。カマドウマだよ、セアカゴケグモだよ。そんな自棄っぷりだった。
「俺は悪くないです」
自己弁護だけを繰り返す。
「悪いのは俺みたいな野糞を生み落とした両親です」
「キミ! それは流石に言いすぎだ。ご両親がそんな言葉を聞いたら……」
若い方の警官が急に熱くなった。テンション上げんなよ、気持ち悪いな。んなこと言われても母親の顔なんて見たこともないよ。父親の顔なんてすぐには思い出せないよ。
「だいたい、何があったか知らないけど、君は自分だけが不幸だとでも思っていないか?」
「思ってないっすよ」
いい感じに鬱陶しくなっている若い警官に適当に返しながら、年配の方を見た。カリカリと調書のようなものをこっちから見えないように机の下で書いている。膝の上で文字書いたらガクガクしない? なんて笑いながら言ったら二人が二人ぶちきれるんだろうか。ちょっとやってみたい衝動が起こるが、なんとか堪える。
「キミより不幸な人なんて沢山居るんだ。キミはそうして無事で生きているし……」
ああ、本当に変なスイッチが入っている。俺もなんだか受け流してばかりで言われ放題なのがシャクになってきた。やっぱり相当余裕がないんだろうか。
「だからなんですか? 僕が不幸であるという主観と、顔も見たこともない人間の不幸と何の関係があるんですか? 他の人の話やめてもらっていいですか? 今は僕が不幸か、不幸だと思っているか、っていうのが焦点でしょう?」
つい勝手に口が回る。
「な、なんてことを」
どっかで受け売りしたような、そんな科白で俺の腐った心を動かそうなどとチャンチャラ可笑しい。大体あんなのは本旨から論点がずれているのが大概。口八丁で良いように丸め込もうという魂胆に反吐が出る。大体その自分より明らかに不幸な人間、その本人がそれくらいで不幸と言うな、と怒るのならまだ納得も出来る。謝罪の言葉も出るだろう。というのも、それは自分が不幸であるという考えを取り消すというより、より不幸な人間の気分を害したことに対する謝罪である。それがなんだ。三段警邏棒なる殺人兵器をチラつかせて善良な市民を脅すことを快感にしているようなサドどもが、威を借るかのようにしたり顔でほざいても、全く心動かされない。腹が立つだけだ。
「キミはそういった人たちに申し訳ないと思わないのか。たかだかドブに落ちたくらいで」
じゃあお前も落ちてみろよ。ドブネズミの仲間入りをしてみろよ。とてもじゃないが、そんな不特定多数の無関係な人間に思いを馳せている場合じゃなくなるから。
「全く思いませんね。そんなイマジネーションだけで、心動かされるような情緒豊かな人間だったら、とっくにこんなクズから脱却してます」
「キミは……」
顔が赤くなってきている。
「大体その考え自体が逆説的にそういった人々を貶めていると思いませんか。自分はこの人たちよりはまだマシだ。まだ大丈夫だ。だから頑張ろう」
「そんなひねた考え方……」
まあひねてるっちゃひねてるのかもしれないが、真理だと思うよ。実際心に余裕のない人間の思考なんてとてもじゃないが、汚わいまみれだよ。もうちょっとそこらへんを付け加えてやろうとしたら、
「お前等、いい加減にしろ」
低くドスの利いた声がした。いつの間にか対面の中年警官が顔を上げて俺を恫喝するような目で見ていた。素直に迫力があった。
「城山くんだっけか、何があったか知らんし、興味もないけどな。そうやってべらべら口を動かしてる暇があったら、なんで自分がここに居るかもう一度よく考えてみろ。留置所にぶち込むぞ? お前も余計な説教なんてしてないで、仕事だけしとけばいいんだ」
俺に、後輩に、その目を巡らせて、黙らせると、自分は淡々とした手つきで調書を書き上げていった。