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翌日目が覚め、自分の家だった時はほっとした。今向こうに行っても何も出来ないから好都合だ。それに二人に見られたら気でも触れたかと思われてしまう。奈々華は当初は驚き、呆れ果てていたものの、まあお兄ちゃんが馬鹿なのは今に始まったことではないし、と概ね慣れてくれていた。こういうとき家族というのはありがたいものなのだなと実感する。本当に迷惑ばかりを掛けて申し訳ないけれど、その迷惑を呆れながら被ってくれる彼女には無限の感謝を。と思っていると奈々華はちょっと機嫌が良い。俺が家にずっと居るのが、いや居ざるを得ないのが嬉しいのかもしれない。今現在俺は二足歩行が困難な状態にあり、家中を這いずり回って移動している。その姿を赤ん坊のようだと表現して、ほっぺをつついてきたり、世話を焼いたりしてすこぶる楽しそうな妹君。もしかして一昨日の夜寂しそうにしていたのは、俺が金を手に入れてまたパチンコ屋に行ってばかりで自分の相手をしてくれない未来を予想してのことだったのかもしれない。まあ愛いヤツといえばそうなのだが、本当に凄いなとも思う。俺の今回のことは自分でも若干ひく程に酷いものだった。どうしてあんなことをしたのかと今問われれば、カッとなってやったとしか言い様のないものだ。何せ老人でも赤ん坊でもないのに、自分の足で歩けなくなる事態を俺はこの歳まで考え付かなかった。事故やアクシデントの怪我ならまだしもだ。そんな俺に愛想を尽かさない彼女は本当に俺に深い愛情を寄せてくれている。稀有で尊い存在。こんなことで再認識したなんて知ったら奈々華はまた呆れるだろうけど…… それともう一つわかったことがある。這い這いで階段を下りるのはとても怖い。
昼頃に恐れていた事態が起きた。カナがやってきたのだった。サナちゃんは帯同していない。聞いたところまた用事があるのだとか。家の事情がちょっとあるみたい、というカナの顔は本人でもないのに気まずそうだった。何かもう少し詳しいところを聞いているのかもしれない、と勘が告げたが、聞き出すことでもないのでそうなんだとだけ返しておいた。
「で、なんでお兄さんは足に包帯巻いてるの?」
ソファーに座って隠すように左足を右足の後ろにやっていたのだが、目ざとく見つけられてしまう。俺が擦ったのは左足の裏だけである。血が出ていなかったらきっと両足やるまで気がすまなかっただろうけど。
「ちょっと剣山を踏んでしまってね」
考えていた嘘。完璧にして疑いようのない嘘だと自負している。
「なんか自分の足の臭さにカッとなって、風呂場で金ダワシで擦ったんだって」
なんで本当のこと言ってしまうん?
「ちょっと何言ってるかわからない」
カナは苦笑いしながら小首を傾げてみせる。
「……」
「……」
「ていうかマジなの? 馬鹿じゃないの?」
結構予想外の反応。いや、言葉は予想内だけど、彼女の表情は予想の範疇にないものだった。ドンビキされると思っていたものだが、言葉の最後は少し笑いを含んでいたし、顔も穏やかで優しかった。どちらかというと哀れんでいるような、愛おしんでいるような、そんな表情にも見えた。
「馬鹿だ馬鹿だとは思っていたけど、本当にどうしようもないね」
逆に居心地が悪くなる。ゲラゲラ笑ったり、ひくひく笑われた方がまだ対処がしやすい。
「でも馬鹿な子ほど可愛いっていうのも本当だよね」
奈々華がカナに笑いかける。カナも同意したように生暖かい笑みを俺に向け、なるほどそんな風に思われたのかと納得する。納得はしたものの、今度は気恥ずかしくなってくる。居たたまれなくなって、ソファーを下りて這い出す。目指すは冷蔵庫。アッポージュースがあったはずだ。俺が飲みたいのもあるけれどカナや奈々華に出してやろう。
「はいはいしてる」
「それはするさ。歩くと痛いんだもん」
ちょっと自棄気味に答えてやる。
「どこ行くの、お兄ちゃん」
奈々華が背後で立ち上がる。速く歩いているわけでもないのに、あっという間に背後に、いやこの場合尻後に、立たれた気配。冷蔵庫だよ、と答えると、返事の代わりに背中に柔らかくて暖かい感触。奈々華が乗ったらしい。ちょっと懐かしい気持ちになる。昔はこうやってお馬さんごっこをしたっけか。ちょっと感傷に浸っていると、パチンとケツを弾くように叩かれる。
「はいどー。はいどー」
「やめてあげて」
カナの声はやはりいつもより随分優しい。弟はここまで馬鹿ではないだろうが、それでも年端も行かない男の子となれば多少は馬鹿やって、それが可愛かったりするんだろうか。
「後でカナもやればいいよ。ちょっと楽しいよ」
「え? ほんと?」
やっぱりアップルジュースは俺だけ飲むことにしようか。