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朝、川瀬からのメールで起きたときは天啓だと思った。彼の示したイベントの内容は復帰をかけて闘おうという俺にとって申し分ないものだった。設置台の三分の一が456確定。さらに「てっぺんシート」なんてあって全6確定もあるそうな。こちらに帰って来たという実感もそこそこに、涎が出そうなイベントに心躍った。俺は闘った。抽選の番号は悪くなかった。台選びも悪くなかった。素直な上げ変更の多い彼の店で、前日前々日と凹みのデータを示している角台を取れた。それはもうタバコを放り投げん勢いだった。軍資金も申し分なかった。十五本あればどれほど吸引力のあるART機を打っても形になる前にショートなんて事態は起きない筈だった。勿論子役の取りこぼしもなかった。血走った目でリールの回転を追いかけていた俺に死角なんてなかった。ボナ察知の際の下段バービタも一度もミスは無く、最速で揃えた筈だ。そして何より設定は最悪でも4は見込めた。偶数の上である挙動を最初から見せてくれていた。いや、敢えて言うなら8対2くらいで6だ。

だのに。だのに負けた。一体何が悪かったのだろうか。答えは簡単だ。ヒキという自分ではどうしようもない、そして一番重要とも言えるファクターが足りなかったのだ。

ボーナスがレグに偏る。最低継続66%のARTが八回も連続で単発終了する。勿論数字上起こり得ないことはない。ないが…… 起こらない確率の方がとても高い。すんごく高い。嵩む投資、増えないメダル。夕方には一般解放せざるを得ない状況。俺を嘲笑う6。店は悪くない。俺の右手が悪いだけの話。川瀬は抽選がすこぶる悪く、スロットなど取れない程であったにもかかわらずパチンコで十万弱勝った。おまけにスロットのハイエナに成功し、天井ARTを足がかりに一気に三箱近くカチ盛る始末。結局店に残して一人敗走してきた。そう、要するにヒキ。俺になくてアイツにあるもの。同じゴミなのに、どうしてこうも差がついてしまうのか。俺はもうこの稼業に向いていないのではないか。今まで多少なりとも実入りがあったからやっていたのに、これでは続けることに、デメリットこそあれ、メリットなどないのではないか。ただ徒に金を減らすだけ。昨日汗水垂らして働き得た金の四分の一ほどが数時間で消滅してしまった。皆俺の傍から離れられないから待たせてまで働かせてもらって得た金。申し訳なさすら感じる。不甲斐ない俺の右手。いっそタバコでも押し付けて根性入れなおしてみるか。

やっぱりそれも怖くて出来ない。黒透明な灰皿にそっと押し付けて揉み消す。ごめんなさい。生まれてきてごめんなさい。ヒキが弱くてごめんなさい。だったらやめれば良いのに。わかっていてもすっかり傾倒してしまった俺はもう中毒。ごめんなさい。どうしようもなく愚かでごめんなさい。

奈々華は部屋に居ない。俺一人にしてくれている。頭を冷やせということなのかもしれない。朝早くに妙に殺気だった目で出て行って、夕方にはいじめられた野良犬みたいに汚い顔して帰ってくれば彼女が事情を悟らないわけもない。ごめんなさい。ダメなお兄ちゃんでごめんなさい。俺はでも本当は働きたくないんだ。また昔みたいにコレだけやって遊んで暮らしたいんだ。ニート学生で居たいんだ。でもモラトリアムってそういうものじゃない。君とまた仲良く暮らせるようになったけど、君と上手くいっていなかった時もコレだけは楽しかったんだ。脳を麻痺させてくれるんだ。麻薬だよ一種の。


溜息を一つ吐いた時、靴下をまだ履いていることに気付いて脱いだ。ツンと嫌なにおいがした。何か、吹奏楽器の空気穴から漏れ出した涎汁のような、長い時間をかけて醸成されたような、すえた匂いだ。急に腹が立った。カッとなるとはこのことだ。なんで俺の足はこんなに臭いんだ。川瀬の足は臭くない。奈々華の足は臭くない。不平等だ。俺だけが負けて凹んで臭い。

ほとんど衝動的な動きだった。どたどたと階段を駆け下り、リビングに駆け込む。夕食の準備をしている奈々華が吃驚して目を見開いている。その奈々華を押し退けるようにしてシンクの脇にある金ダワシを引っ掴んで風呂場に行った。

「お、お兄ちゃん?」

奈々華の声を背中に聞きながら、乱暴に服を脱ぎ捨てる。洗濯機に上手く入ったものも、そこらに散乱してしまったものもあったが、気にも留めず、俺は風呂場に入る。やたら興奮しているのに気付いていたが、体が制御できなかった。蛇口を捻りシャワーで足を洗う。こんな水洗いで俺の足の匂いが取れるはずがない。多分俺は今最高の好敵手に出会ったように、不敵な笑みを浮かべている。衝動は止まらず、持ってきたタワシで思いきり足の裏を擦った。これで良い。妙な満足感があった。自傷行為というものは元来俺の癖ではない。だが、突発的にその一端を理解したような気がした。自分という矮小な存在を痛めつけてやることで、ある種の充足が得られる。それは罪の意識から逃れるためだったり、その矮小さや卑屈さから誰にも向けることの出来ない嗜虐心を、例え自分自身にでも向けられることに快感を覚えるためだったり。鬱屈した感情の発露。痛い。激痛が走る。シャワーが流す水に、赤が混じる。強く擦ったことにより、足の皮の大部分が捲れて出血してしまったようだ。

そこでやっと俺は我に帰った。何をやっているんだ。いや、勿論一部始終を覚えているが、まるで俺じゃない誰かに体を乗っ取られていたような錯覚すら覚える衝動だった。人間の野性に近い、突発的で原初的な感情に支配されていたのかもしれない。いや、そんなこと考えている場合じゃない。痛い。何これメッチャ痛い。メッチャ血が出てる。死ぬ。やばい。シャワーを止める。足を踏ん張って立とうとして、また激痛が走る。声にならない呻き声が喉の奥から漏れる。淡いブルーの風呂椅子の下の方にも血が飛び散っている。俺は這って浴室を出ると、バスマットを敷き、タオルを取って体を拭いて、下半身をそれで巻き、奈々華を呼んだ。助けてと呼んだ。

奈々華は俺の様子に只ならぬものを感じていたのだろう、洗面所と廊下を仕切るアコーディオンカーテンの向こうに居たらしく、すぐに血相を変えて入ってくる。

「どうしたの!」

「足をタワシで擦ったら血が出てきた」

「なんでそんなに馬鹿なの!」

てんやわんやして、奈々華の手当てを受けられたのは三十分ほど経ってからだった。

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