72
帰ってすぐ煙草が切れかけていることを思い出した。へそを曲げているかと思った奈々華は意外に大人しく、その代わりあまり甘えてもこなかった。リビングでテレビを見るともなく見る俺を放置して台所に立って夕食の準備をしているだけだった。
「奈々華。俺コンビニ行ってくるけど何か要る?」
ソファーの背中越しに奈々華に話しかける。
「あ、じゃあ私も行っていい?」
少し遠慮がちな声。家族とは便利でも厄介でもあって、あまりあからさまに甘えてこないのも、いつもなら有無を言わさずついてくるくせに今日に限って許可を求めるのも、何となくなんでかわかってしまう。
「いや、煙草買ってくるだけだから。すぐ戻るし」
「……そう」
「うん。何もないんなら、行ってくるよ」
俺はそう言って最後の一本を咥えて立ち上がる。ぽいっと空箱を手近なゴミ箱に投げる。ここしかないとさえ思えるような素晴らしい弧を描いて、おさまった。
何とはなしに考えていることがある。
奈々華を少し兄離れさせたい。このままではあまり好ましい事態にはならないのではないか。そんな気がする。先輩の言っていたことを思い出す。穏やかではあったが、諫言とも金言とも感じた。彼女は当て推量だと言ったが、奈々華の精神性について発せられた彼女の言を真っ向から否定するのは憚られた。またその精神性の帰結として推量された感情に関して、俺自身思い当たる節があるのだ。俺に対してやや倒錯した思いを彼女が抱いているのではないかという疑念。先の爆弾発言に留まらず。それはふとした拍子に背中に感じる強い視線だったり、甘えながらはにかむ姿だったり…… 違和感を感じることが今までなくはなかった。兄への親愛、その奥に背反せず芽生えた淡い恋情。勿論全て俺の第六感に近い部分が感じ取ったものであり、それらは全て錯覚で、或いは俺の自意識過剰からくるもので、実は純粋に兄妹愛を示してくれているだけという可能性もある。答えは俺の胸の内からは出てこない。奈々華に直接尋ねてみる以外には知り得る手段はない。だが勿論そんな勇気はない。断じてない。もし聞いてみて、肯定なんてされた日には、体中から変な汁が漏れ出てきそうな気さえする。
煙草が短くなったので捨てる。側溝に落とされた瞬間、ジュッと断末魔をあげて沈んでいく。それを見ていると、ふと横顔に視線を感じた。側溝に目を落としているわけだから、横と言うと俺の進行方向の逆、後ろからということになる。気付いていないフリをして、目だけチラリとそちらに向けてみる。電柱の影に隠れるようにして俺を見ている女の子がいる。これが見知らぬ女の子で、彼女は街で見かけた時から俺に一目ぼれして、居ても立ってもいられず、俺のことを群集の中に探す日々を送り、そして今やっと俺を見つけ、物陰からひっそりと話しかける機会を窺っているいじらしい娘、とかなら中々嬉しいものだが勿論違う。電柱の君は、十年以上前から知っている娘で、床で寝転がっていたら掃除機で俺を追い掛け回すなどする時々バイオレンスな女の子だ。奈々華はまだ俺が気付いていないとでも思っているのか、電柱の影で息を潜めているようだ。変質者と言わざるを得ない堂に入ったストーキング。
俺は前を向いて歩き出す。数十メートル進むと止まる。ペタペタとした足音も止まる。そんなことを二、三度繰り返す。毎度電柱やたて看板を過ぎ、しばらくして止まってやるのは俺なりのストーカーさんへの思いやりだったりする。まだばれていないとは流石に妹君も思ってはいないだろう。振り返る。電柱の影から出していた顔が慌てて引っ込む。だけど淡いブルーのスカートに包まれたお尻がピョコっと柱からはみ出している。まさかまだ隠れきっているつもりなのか。笑っちゃいけないんだろうけど、少し可笑しくなる。同時に、さっきまで俺が考えていたことは思い過ごしかもしれないという気がしてくる。恋など知らぬ、ちっちゃい子供がやるような微笑ましい尾行。ここに兄への親愛以外の何かの感情が挟まっているだろうか。
「……出ておいで」
優しく言う。奈々華ははっと息を呑んだ雰囲気になるが、やがて観念しておずおずと顔を見せる。さらにしばらく待っていると、全身を影から出し、ちょこちょこと歩いてくる。
「……怒ってる?」
第一声。俯き加減な妹。
「怒ってないよ」
兄離れ。俺の本心はそれをして欲しくないのかもしれない。そっと頭を撫でると奈々華は少しはにかんだ笑顔を浮かべた後、目を細めて受け入れてくれている。それから手を繋いでコンビニまで一緒に行く。俺は勝手だ。息苦しくなって離れて、奈々華にそれを悟らせといて、それでも可愛いと甘えさせるんだ。奈々華は勝手だ。それを悟ってなお、甘えたいから甘えてくるんだ。
夕焼け空に情緒のないカラスの鳴き声を聞きながらそんなことを考えた。