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川瀬のしょうもない教えは、功罪を生んだ。グダグダ考えていても仕方ないし、俺個人としてはもう一度顔を合わせてきっちり謝りたいと思っていたので、自分に発破をかける意味でも土下座にしようなんて考えた。スライディングになってしまったのは、奈々華が日頃から廊下を綺麗にしてくれている証左でもあったが、今は割愛したい。
功は仲直り。仲直りと形容していいのかもわからないが、とにかく昼間ほどは気まずい空気にはならないのではないか。まあ俺の対応次第になりそうだが……
罪は俺の胸に巣食う困惑、一つの疑念。勿論今まで考えたことがなかったわけでもないが、それにしても今日のそれは一段と強い。確信…… するほど自意識過剰じゃないものだから、確信に近いエリアまでその疑惑をステップアップさせてしまうような言葉を実妹から賜った。
「参ったねえ」
食後の煙草がこれほど美味しくないのは久しぶりかも知れない。苦みばしっていて、時折喉の奥から酸っぱいものがこみ上げてくる。もう消そう。そうやってフィルターの先をつまんで灰皿に押し付けた時だった。
コンコン。控えめなノック。
「入ってますよ」
返事をしてやると、ドアが開いて奈々華の顔が見える。憂いはなく、どちらかというとはにかむように小さく笑っていた。思わず目だけ逸らした。こんなこっちゃダメだとはわかっているのだが、どうにも反射的に逸らしてしまった。同時に考えても仕方ないことを考えた。どうして俺達兄妹は次々わだかまりそうになるんだ。昨日だって微妙な雰囲気だったじゃないか。それを振り払えたかと思うと今度はこれだ。心労が絶えない。神様は俺のことが相当嫌いなのか。このままじゃ禿げるのではないか。パキケファロサウルスみたいな頭になってしまうんじゃないだろうか。
「あの、宿題見て欲しいの」
「ああ、構わないよ」
奈々華は一瞬躊躇するような仕草を見せたが、結局俺の方へ歩いてきて、膝に座った。昔からのお気に入りの場所で、三年座らなくて、高校二年生になろうかというのに、昼間には何とも言えない感じになったのに、座る。きっと…… きっと今日の出来事をお互い無かったことにしようと努力してくれているんだ。
小脇に抱えられていた問題集がテーブルの上で開かれる。生物のようだ。単細胞生物の断面図を模写した絵がページの上部に載っている。だけど俺の目はそこから焦点がずれていった。ぼやけたレンズで覗いたみたいに、背景の一部へと降格していく。焦点は、奈々華の後頭部へと移っていた。枝毛が一本もないのではないかと思うほどに傷みを知らない綺麗な黒。指を絡めるとするすると合間から抜けていって、やがてストンと跳ねて戻るのを知っている。水をすくったような滑らかさ。彼女が少し前のめりになって鉛筆を動かすたび、毛先の方が微かに波打つ。
「ねえ」
奈々華が首は動かさずに呼びかけてくる。やましいことなんて何もないのにギクリとする。
「パチンコで負けたの?」
ああ、言われるまでほとんど忘れていた。そんな些事を考えている余裕はなかった。ああそうだよ、と答えると、背中越しに何か言葉を探すような雰囲気を感じた。
「お金ある?」
挙句妹に心配されている。多分、根本的に川瀬とは意気込みが違うのだろう。負けない、絶対に働かないという意思がアイツの方が何倍も強いに違いない。俺は負けてしまったら、また借金返済の為に異世界で奈々華たちと働くのも悪くないと心の底で思っている。精神論なんてあまり好きじゃないけど、そんな風にも考えてしまう。
「何とかね。ただ闘志は折れてしまったかもしれない」
「……じゃあしばらく行かない?」
そういうことになるかもしれない。俺はどんなギャンブルにしても、知識と技術、折れない心、押し引きのバランス感覚、この三つが大切だと考えている。心技体じゃないが、どれか一つでも欠けていると、正常な立ち回りというものが難しくなる。カスが感染ってはいけないので奈々華には詳細に説明しないが、
「うん。多分ね」
結論だけ話してやる。奈々華は途端、振り返った。子供みたいに顔中で笑っている。嬉しさが抑えきれないという感じ。何故だか嫌な予感がする。
「それがどうかしたのか?」
「ううん。明日から一杯遊べるなあって」
「は?」
「私今日で特講終わりだったんだよ? 行けなかったけど」
何だと。いや、まあ教師だって休みが必要なんだろうし、春休み中ある訳でもないのか。だけど急に、そんな……
「明日から何しようかなあ。ねえ、どっか遊びに行こうよ」
邪気もなくテンション上がりまくりの妹に待ったをかける勇気がない。いや、まあ嫌なわけじゃないけど、それにしても一日中一緒という格好になった場合は話が違ってくる。この子もいつか一人の時間が欲しくなって部屋に篭ったりするだろう、なんて甘い考えをしていると痛い目を見るのは知っている。
「や、えっと…… じゃあお前なんで宿題なんてしてるの?」
「あ」
しまったという顔になって、すぐに俺に後頭部を向ける。どうやらコレも方便だったらしい。もしかすると今までも宿題なんて出ていなかったのかもしれない。素直に遊びに来たと言えば良いのに……
深くは追求せず、奈々華の宿題(偽)を見ていると、まあ明日からは少しくらい家族サービスするかなんて気持ちになってくるから不思議なものだった。