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今日はありがとうございました、とイヤに丁寧に頭を下げるので、気にするなとわざと軽く言ってやる。そんな頃には、俺の方は全く好転しているわけでもないのに、気持ちが軽くなるのを感じていた。お姉ちゃんとお兄ちゃん。立場は違えど、皆多少なりとも兄弟間の悩みというものを持ち合わせているのだなと。
「付き合わせたあたしが言うのも変だけど、早く帰ってあげて」
カナは最後にそう言って、マンションのエントランスへ入っていった。俺の方も踵を返す。
こういうのは勢いが大切なんだと昔誰かに教わったような気がする。謝るときのことだ。相手の意表を突いて、相手を飲み込むほどの完璧な土下座をかませば、相手は怒っていたことも頭から飛んでしまい、やがてお前を許すだろう。そんな言葉だったような気がする。誰の教えだったか。ああ、川瀬だ。
「しょうもない」
あんなロクデナシの言うことを真に受けるなど、正気の沙汰とは思えない。家までの道すがらを歩いて代替案を考えることにしよう。
こういうのは勢いが大事だ。押し入るような勢いで戸を開け放つ。
「ただいま!」
バタンと大きな音を立てて扉が閉まると、丁度居間から出てきたらしい奈々華の姿をみとめる。ここだ!
靴を脱ぎ捨てて、奈々華に駆け寄る。すんでのところで止まると、足を素早く折り畳み、体を曲げる。膝に溜まった心地良い乳酸を感じながら、肩から勢いをつけて床へと両手の平を叩きつける。続いて額に鈍い痛みを感じてゴツンと大きな音を耳が拾った。少し膝小僧も痛む。どうやら勢いがつき過ぎたようで、床の上を滑ったらしい。
「今日はすいませんでした! お兄ちゃんのこと嫌いにならないで下さい!」
言えた。勢いに任せて言うたった。俺の顔の影が落ちて黒くなった床をひたすらに見つめる。奈々華が呆気に取られているようなそんな空気を感じる。だけどやがて、
「お兄ちゃん。顔上げて」
言われたとおりにする。まだ土下座の姿勢は崩さず、姫にお目通りかなった武士みたいに顔だけ上げる。奈々華は呆れた顔で笑っている。
「もう。馬鹿なんだから。スライディング土下座とか初めて見たんだけど」
俺も初めてした。
「怒ってないって言ったでしょう? 当たり前だけど嫌いにもなってない。ただ…… 他人に触られるのが初めてだったから吃驚しただけ」
「……」
それはまた罪悪感を一層煽る。
「お兄ちゃんは何も悪くないでしょう?」
奈々華が膝を曲げて俺の顔に自分の顔を近づける。
「私が勝手に布団に入っただけなんだから」
「いやでも」
それは俺がうなされたりしないようにという意図であって、実際それで助かっているわけで。
「もう。とにかく良いの。ほら、ご飯食べてないんでしょう? 早く起きて食べちゃって。食器片付けられないでしょう?」
強引にこの話題を終わらせようとする。立ち上がって先に居間に入ろうとする。許された。まだ謝り足りないような気もするが、許された。ウジウジ悩んでいたのが馬鹿みたいだ。案ずるより産むが易し。そんな格言が俺の頭に浮かんだ時。
「それに…… 別に…… じゃな……たよ?」
ガチャリと音がして、ドアノブが回されて、居間の景色が見えてきて。そんな過程で、小さな、本当に小さな声を聞いた。聞こえなくても良いじゃなくて、聞こえないように言ったようだった。
「え?」
「ほら、早く起き上がって!」
奈々華は先に居間の中へと消える。ドアは閉めないで俺を待っている。ゆっくり立ち上がりながら、さっきの言葉を脳内で幾度も再生させる。声になる前の音のような部分を、言葉に当てはめる作業を終わらせて、文脈や状況と照らし合わせてその整合性を確認する。たらりと冷や汗をかくような気持ちになる。もう少し悪い耳を持っていた方が良かったんじゃないかと、自分でもよくわからない後悔が生まれる。ともあれ立ち上がる。少しふらついたのは、急速に動いた所為じゃない。もう一度耳と頭に問うてみる。やはり正解だと返ってくる。
彼女はこう言ったのではないだろうか。
「それに、お兄ちゃんだから、別に嫌じゃなかったよ?」