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腹が立つ。働いているのがそんなに偉いのか。俺が退いたすぐ後に座った仕事帰りのサラリーマン。瞬く間にボーナスを引き、ARTに捻じ込んでやがった。そりゃそうだろうさ。あの台が6じゃなかったら俺はもう一度解析サイトを徹夜で読み直して、そんで死んだほうが良い。くそ、そんなに俺が気に入らないのか? あの台は。この世界は。つまんねえ。くそつまんねえ。俺が何をした? 働いていないのがそんなに気に入らないのか? 馬鹿にしやがって。妹に何か買ってやろうと、そんなささやかな願いすら踏みにじる世界なんて大嫌いだ。国が悪い。どう考えても国が悪い。無理矢理に社会の歯車に組み込もうとして、それを拒む因子に冷たく当たる。保護しろ、俺を。今すぐ。
「はあ」
奈々華はどう思うだろうか。このクズの兄を。寝起きに胸を揉んで気まずくなって逃げ出して、帰って来たらギャンブルで負けたとほざく。俺が今日打った台は、普通の人間が打てば勝てるものだとか説明しても理解してもらえるとは思えない。また理解もしないで欲しい。ギャンブルに理解の早い妹など、困ってしまう。
「ああ、もう。誰か俺のこと撥ねてくんないかなあ。そしたら金引っ張るんだけどなあ」
やるせない閉塞感。終わりの見えないスランプ。刻一刻と迫る労働の時。
「撥ねろよなあ、信号赤で渡ってんだからよ」
急激に速度を緩めて止まった車のフロントガラス越しにぎょっとした顔で固まるおばさんが見えた。一瞥だけ残して横断歩道を渡りきる。足取りは嫌でも重くなる。ケーキでも何でも買って帰ってやりたかった。沢山勝ったなら前欲しがっていた鞄を買って帰ってやりたかった。いい歳して悪夢にうなされる兄を見かねて同衾して安心させてくれる妹にヒドイ仕打ちをしてしまった。わざとじゃないとかそんなことは言い訳にもならなくて…… 今更、自分のしでかしたことの重大さを理解してきた。嫌だったんじゃないか。普通の妹なら兄貴に胸を触られて楽しい筈が無い。嬉しい筈が無い。不快であっただろう。恩を仇で返された気分かもしれい。
俺が住む街は駅を中心に、南側を商業地帯、北側を住宅街が囲むように出来ている。丁度駅が丘の頂に、どちらに向かうにせよ坂を下っていくような形になる。坂の多いこの街に越してきたのは三年前になる。借家を借りて、奈々華と住み始めたが、互いにかなり距離を持って暮らしていた。それがここ最近急速に互いの距離を縮めた。功罪は必至なのかもしれない。話し相手には困らなくなったし、煩わしい雑事も増えた。何にせよ俺は一人でいることに慣れすぎたのかも知れない。今日だけのことではない。昨日だって少しぎくしゃくした日を送った筈だ。勿論仲良くすることが悪いとは言わない。ただ、今の距離感に対応しきれていないのだろう。これからもこんなことが頻繁に起こるのかもしれないと思うと気が滅入りそうだ。いっそまた一人の生活に戻ったほうが楽なのかもしれないなんて気持ちも生まれてくる。俺みたいなダメ兄貴の世話をしないですむと、奈々華にとってもそれが最善だろうと、そんなおためごかしじみた言い訳まで浮かんでくる。だけどそれはダメだということもわかっている。俺達は家族だ。軋轢があっても、摩擦が起こっても、葛藤があっても、それでも得られるものは他人と居るよりももっともっと大きいものだということも十分に知っている。
「つっても気まずいものは気まずいんだよな」
一体彼女はどうして簡単に兄貴の布団へと入れるのだろう。こういう可能性というか危険性を常に孕むということぐらいわからない筈もないだろうに。やはり彼女が優しくて俺が不甲斐ないからだろうか。放っておくと悪夢に魘される俺を放っておけないからなのか。だったらやはり不注意だった俺が悪いということだ。既にそこらへんは理解はしているのだが、何とも。随分と身勝手な俺は、なんだったら放っておいてくれても死にはしないし、今日みたいな危険があるのだから、やめておけばいいのになんて考えてもしまう。こういうとき二人家族というのは難儀だなあ。どれだけ気まずくても間に立つ人間が居ない以上、サシで顔を合わせなきゃいけないんだから。
と、考え事をしながら歩く俺の目が、見覚えのある顔が近づいてくる姿を捉えた。丁度坂を下っていく途中だったものだから、相手は登って来る途上である。今は誰とも会いたくはなかったが、もう回避のしようもなく、相手も俺の方に気付いたらしく、口を「あ」という形にして駆け足になる。
「どうもっす」
金色の髪をした彼女は懐っこい笑顔を浮かべて俺の前に立った。