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どうしようか迷った。というのも朝起きてみると奈々華はいつもの奈々華で、昨日のことを引きずった様子もない。普通に挨拶をして、普通に話して、普通に笑った。もしかしたら自分の感情と折り合いをつけたのか。だったら俺の方から蒸し返すような真似は得策ではないのではないか。それに謝ると簡単に言っても俺は洗いざらい話すつもりはない。精々昔親戚の家に預けられていた頃のことをふと思い出しただけだ、とかそれくらいのこと。それだけで彼女は納得するだろうか。具体的には? となるんじゃないか。
だったら謝らないのか。このまま彼女に合わせて昨日のことはなかったかのように振舞うのか。それでいいのか。彼女は実は俺の方から折れるのを待っているのではないか。不自然なまでに自然な彼女の様子は俺への無言の圧なのではないか。
「ねえ、お兄ちゃん。ちょっと外に行ってみない?」
結局何にも踏ん切りがつかないまま、その自然体の奈々華に促されるまま外出することにした。当然書き置きは今日もしておいた。
ハケルインの街は広く、昨日一周するのだけでも随分時間がかかった。奈々華は観光をしてみようと思っていたらく、彼の申し出は渡りに船だった。ホテルから出た俺達は右に行ってみようか左に行ってみようか、木の枝でも立てて倒れた方に行ってみようかなんてレベルのおのぼりさん。そこで声を掛けてきたのが奈々華よりも幾つか年下に見える少年だった。ベキラと名乗った。ベキラ君はこの街で観光客のガイドらしきことをしているそうで、俺達への用件もそういうことだった。
「それにしても…… その若さで働いているなんて凄いね」
友人に借金をしてまでも働こうとせずにギャンブルで返済しようなんて屑な発想の男とは大違いだ。ベキラ君は馬車の御者席に座ろうと足に力を込めて自分の体を持ち上げる動作の途中だった。
「いえそれほどでもないです。家業の手伝いですよ」
そう言って歯を見せるが、やはりそれもそこいらの中学生が見せる笑顔より大人びて見えた。乗ってくださいと促されたのは、幌のついた立派な馬車。内部の造りもしっかりしていて、奈々華と俺が入っても床板が軋むようなこともなかった。石灰のような匂いがしたが、ひょっとすると運送業的なこともしているのか。床に座って上を見上げると、ちょっぴり日光を取り込んだ幌が白を増しているようだった。
「出発しますよ」
御者席と客席は布一枚、幌の延長みたいなもんだ、隔てただけ。そこに浮かんだ黒い影が声を掛けてくる。馬車は名所を巡る。馬がいななくでもなく静かに走り出し、幌についた小さな窓から外の景色がゆっくり流れていくのが目に映る。
「頼んでよかったな。見てみなよ。人がゴミのようだよ」
隣に座る奈々華はちょこんと借りてきた猫のよう。さっきから一言も喋っていない。
「奈々華?」
「え? あ、うん。お兄ちゃんはゴミじゃないよ」
「……」
単語の拾い方がヒドイが、今はそれどころじゃなくて、俺は少し浮き上がりかけた気持ちを諌めることになる。口を開きかけて、何を話すかなんてまるで決めていないことに気付く。まるで気道に膜でも張ったみたいに言葉が出てこない。
「お二人は、御夫婦なんですか?」
ベキラ君ナイス。いや、やっぱりそういう話題を振るのはよして。奈々華の顔色を窺う。彼女は眉一つ動かさずに、兄妹ですと。ぶっきらぼうに聞こえない程度の配慮で。まずいなあ。奈々華はやっぱり昨日のことを消化しているはずなんてなく、俺の説明を待っているんだろう。そう確信させられた。だって普段の奈々華だったら「やだもう。ベキラ君ったら。私達夫婦に見えるんだって、お兄ちゃんどうしよう。えへへ」だ。そして俺の困った顔を見て、二ヘラと笑うのだ。
「これは失礼致しました。お二人で旅をなさっているようですから、てっきり……」
本当に申し訳なさそうな声音が伝わり、逆にこっちが恐縮するくらいだ。客商売における礼儀作法も十分に習得しているようだ。
「いや、いいよ。本当はあと二人連れ合いが居るんだけど、今日は別行動でさ」
ベキラ君と話しているほうが楽、という謎の現象。だけど、話してはいるが、言葉が脳を介さずに、口だけで話しているような感覚。だからこの後の会話はあまり何を話したか覚えていないという始末だった。