43
「グッドイーブニング」
たどたどしい英語が青年の口から出た。気の弱そうな笑みも伴っていた。俺も全く同じ所作をすることになる。きっと第三者、例えば青年が連れている女性、なんかが見れば俺が真似たみたいだろう。俺も英語は得意でも何でもなくて、笑めば何か許しを乞うような卑屈なものになる。
<こんなところで何をしているの?>
青年は言いながらも、俺と目を合わせずに茂みの方に忙しく目を走らせる。「夜風が気持ちよかったから外に出てみたんだ」と返したかったのだが、夜風を何と言っていいかわからず、
<河を見ていたんだ>
と返す。俺も青年も積極的に関わる気もないのに、かと言って無視して立ち去る程の度胸はないのだろうな。失礼かとは思ったが、青年が連れている女性に自然と目が行ってしまう。にこにこと愛想の良い笑顔だった。仲睦まじく腕を組んでいる二人は恋人同士だろうか。視線に気付いた彼が紹介してくれる。
<僕の姉です>
ちょっと他人事とは思えない。俺のパートナーも妹だよと教えようかと思ったが、青年がまた視線を泳がせていることに気付く。そこで、俺の仲間が潜んでいないか警戒しているのかも知れない、と思い当たった。彼からしてみれば、たまたま外に散歩に出たら、人気のない川原に人が居て、それは自分の存在を知る者。確かに気味の良い事態じゃない。
<君たちも河に来たんだろう? だったら俺はもう行くから>
先回りしてやる。そのまま二人とは十分な距離を取って道を引き返す。恐らくは彼のためにも、俺のためにも、例え出会う場所が違えば友達になれるかも知れないと思えるほどに共感出来る部分を認めても、必要以上に関わり合うのは良くない。しかし俺の気遣いなど不要とばかり、青年が近づいてきて、小さな声で、
<あのホームラン、何か言うことはないの?>
そう言った。
腹を殴られたのだと気付いたのは、青年の歪んだ笑みを滲む視界に捉えたときだった。見慣れた顔だった。人を馬鹿にして、人を嘲って、悦に入る、自分の優位を確認する、そういう類の笑みだった。割れた鏡に笑いかけたように、それは気色が悪くて、俺の心をざわめかせる。痛みと吐き気で、視界が安定しない。暗転するような眩暈。
<あれを打てたのは僕のおかげなんだからさあ……>
片膝をついた俺の顔に向けて蹴りが飛んでくる。すぐに顔の前で腕を交差させるが、あっさりと体ごと弾き飛ばされる。視界がグルグル回って、木にぶつかったのだろう、背中に痛みを覚えて止まる。足に力を入れて何とか立ち上がる。吐きそうだ。腕が鼻に当たったのか、血の匂いがする。口の中がジャリジャリする。砂を噛んだのだと気付いて、つばを吐く。
<分け前くれても良いんじゃない?>
吐き気は目が回ったからとか、腹にまだ少し痛みがあるからとか、そんなことじゃない。その笑みをやめろ。仮面みたいな笑みだ。貼り付けたような笑みだ。女も、同じような顔で俺を見ている。やめろ。やめろ。俺は怒りと後悔が胸を押し潰そうとしているのを感じている。滑稽に騙されていた。あのマウンドの笑みを全く取り違えていた。彼の警戒の意味を真逆に考えた。
<出せよ>
ふざけるな。俺が打ったホームランだ。奈々華が凄いと喜んでくれて、サナちゃんが見たかったと子供みたいに悔しがった、カナが馬鹿とはさみは使いようなんてからかった…… 皆のために稼いだお金だ。皆で楽しく暮らすためのお金だ。
「出すかよ。言いがかりもいい所だろう。てめえ手加減して放ってたんじゃないだろうが」
伝わらなくてもどうでもいい。英語なんて考えている暇じゃない。青年もまた連れの女に自国の言葉で捲くし立て、二人が二人、小振りのナイフを取り出した。ヘラヘラと口元だけ笑う顔はやめない。不意打ちの一撃を腹にもらった相手に二対一で、武器まで使って負けることなんて微塵も考えていないんだろう。馬鹿が、と俺の方こそせせら笑ってやりたい気分だ。
走る。二人の顔がその速度に驚きを浮かべる。腹なんてもうとっくに直っている。素人に毛が生えた程度のヤツが持つ武器なんて屁でもない。女の方なんて構えから怪しい。俺が顔を顰めていたのは、お前等の醜い笑い顔が気に入らなくて、人の気持ちなんて何も考えない言い草に腸が煮えくり返っていただけだ。青年がナイフを構えて俺を迎え撃つ。振り上げる。刺せばいいのに、とやはり嘲笑したくなる。上がった右腕の付け根を掌で押さえる。初歩中の初歩。殴ってもいいかと思ったが、勢いがついている分、頭突きの方が早いなと、そうする。ゴチッと大きな音がして、俺の前頭部も少し痛い。鼻が折れたんじゃないかなと、いやに冷静な頭が考える。次いでドサリと膝から青年が崩れ落ちる音、女が腰を抜かして落ちる音が重なって聞こえる。鼻を押さえる青年の腹を蹴り上げる。仰向けに倒れなおした青年の左右の指を目だけで確かめる。夜にあって、右手の中指に光るものを見つける。青年が落としたナイフを拾い上げてから、すっと腰を落とす。女が何事か叫んで動かない体を無理矢理動かして俺の足を掴む。
「殺しはしないよ」
ただこのゲームから退場してもらおう。振り下ろす。女の悲鳴がうるさい。指輪はなまくらのナイフでも簡単に壊れた。輪っかの部分の金属が千切れてポロリと落ちる。それと同時に、俺が昼間包まれたような白い閃光がどこからともなく起こる。女の手を蹴るように退けて立ち上がり、距離を取る。入れ替わるように女が光に包まれる青年に這っていく。光が消えると、青年の体はどこにもなく、女が地面に座っているだけだった。