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ベッドで寝ていたはずだ。
いつの間にか俺の背中にゴリゴリと食い込む石の感触に目を醒ました。目を開いて、半身を起こして、周囲に目を回すと、渓谷を思った。こげ茶の土、聳える岩山が視界に飛び込んできた。岩山は、それはもう山で、先が見えない。雄雄しささえ感じさせる堂々としたた佇まいで、いくつか乱立している。背後を見ても同じような風景だった。上を見上げると遙か高い岩山の頂点に突き刺されるような青空。谷底。俺の知識の中ではそれが一番しっくりきた。
「勘弁しろよ」
ベッドで寝ていたはずだ。全身を起こして、歩いてみるしかないという結論に至り、そのようにしかけた時、上の方から「キャー」と若い女性の悲鳴が聞こえた。反射的に見上げるとスカートの捲れあがった生足が見えた。
「眼福…… いや、まずい。こっちに落ちてきてんじゃねえか!」
避けるのは簡単だが、彼女が潰れたトマトみたいになる未来を思い浮かべてしまい、受け止める覚悟を決めた。両手両足に問うてみると何とかなりそうという力強い回答を頂いた。おみ足…… いや少女が落下してくる速度は増すばかりに見えるのは目の構造。俺は落下予測地点で微動だにせず、両手を広げ、少女の身体を受け止める。衝撃が来る瞬間にスライディングの要領で下半身を滑らせて倒れこんでみる。それでも腕が折れるんじゃないかと思えた。ついで俺の腹の上に落ちる人一人分の重さ。腕で多少は緩和したとしても口から涎を出させるには十分だった。むせるむせる。安否も気遣う余裕がなくて、俺は仰向けに倒れたまま、女の子は俺の腹の上、顔を横に向けて咳き込む。岩山の足の辺りが滲んで見える。
「大丈夫ですか! すいませ……」
妙に聞き覚えのある声。というよりこの声は…… 向こうも途中で気付いたように口元を押さえたような雰囲気があった。正面に顔を戻すと、くりくりとした綺麗な二重の瞳。
「お兄ちゃん!」
「奈々華!」
「だいじょう……」
「早くどいてくれ!」
結局淡いピンクのパンツにきゃっきゃ言って喜んでいた俺は、妹のパンツを下から覗きこんでいたに過ぎなかった。
「ここはどこ?」
当然の疑問に、当然に答えを持ち合わせない。不安げな瞳を左右に振る奈々華を見て、俺は自分のせいでもないのに申し訳ない気持ちになった。
「俺もさっき気付いたらここにいたんだよ」
呼吸も整ったところで立ち上がって周囲を見る。乱立する岩山の間を縫うようにしていけばある一方向には進めそうだった。各々の間隔が狭くて、空を見るに夜ではないだろうに、ほの暗い。道とも呼べないその隙間を縫うしか……
「いたた」
弱々しい声に振り返ると、奈々華が右の足首を押さえたまま座り込んでいた。何でお前が傷んでんだよ。おぶろうかと近づきかけて、ふと悪戯心が生まれた。
「さて…… 君に選択肢を与えよう」
「ごめんね。大丈夫? 頭打った?」
「一番、おんぶ。二番、お姫様だっこ。三番……」
「二番! 二番!」
「三番、放置。四番、休憩及び回復待ち」
「二番しかないかなと思ったけど、おんぶも捨てがたいなあ」
三番、四番あたりで「冷たいよ」と言うツッコミ待ちだったのだが、奈々華の関心はハナから一、二番のどちらかしかないようだ。つまらん。
「ちょっと実演も交えて説明してよ」
奈々華としてはどちらも堪能した上で決めようという腹だろう。本当にどうしようもない甘えん坊だ。少し考えて奈々華に乗ってやることにする。
「おんぶ。対象の上体を背中に預けたまま、行為者が対象の脚部及び臀部を両手で掴み支えそのまま静止若しくは歩行をすること。お姫様だっこ。行為者が対象の膝裏に片手を当て、もう片手を背中に回して持ち上げ、そのまま静止若しくは歩行すること」
奈々華の瞳から急激に輝きが失われていく。
「放置」
と言いながら二歩、三歩、奈々華から距離を取って背中を向ける。「このようにする」と付け加える。
「休憩」
戻ってきて奈々華の隣に腰掛ける。「このようにする」と付け加える。
「……」
しばらくして奈々華は結局おんぶを選択した。
やはり此処は歩けば歩くほど谷底だ。歩いても歩いても変わらない景色。背中には奈々華。ごめんね、と繰り返すもんだから、これくらいなんでもないよと返す。本当に軽くて、俺は逆に心配になるくらいだ。ちゃんと昼飯を食べているのだろうか、学校でいじめられているんじゃないか、俺の世話が忙しいのだろうか……
岩山を縫うのは俺達だけじゃなくて、時に追い越し、時にぶつかって風が吹いていく。いくら軽いといっても人を背負って歩いてなお涼しいということは、谷底ということを加味しても、季節は秋くらいだろうか。
「このまま誰にも会わなくて、どこにも繋がらなかったらどうなるんだろう?」
奈々華がポツリと言った。
「大丈夫だよ」
なるだけ優しく。もっと優しい声音は出ないものか。
「大丈夫。いざとなったらお兄ちゃんがお前を背負って岩山を登ってやるから」
「そんなの無理だよ」
「出来るさ。お兄ちゃんは脳みそまで筋肉で出来てるんだぞ?」
小さく振り返って優しく微笑む。なるだけ優しく。奈々華も安心したのか、俺の気遣いが通じたのか笑ってくれた。正面を向きなおした俺の頬に奈々華の頬が重なる。風に吹かれて少し表面は冷たいけれど、そのプニプ二の底には確かな温かさがある。