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手元で鋭く曲がるそれは今をときめく一流の投手たちがこぞって投げるナウい変化球だった。カットボールなるものだ。インパクトの際の際まで捉えたと思っていたのだが、いざバットに当たるとそれは本当に根元で、快感すら覚える芯の打球とは違って両の掌にジンジンと不快な痺れを残した。捕邪飛だった。キャッチャーがマスクを放り投げて掴んだ。
「アウトー!」
うるせえな。知ってるよ。審判が捕手のミットの中を大袈裟に覗き込んで確認してから大声を出す。終始この審判はこんな感じだった。乾いた土を猛然と踏みしめて俺に歩み寄ると、人差し指の先を俺の顔に向けながら、
「アウトー! バッターアウト!」
だから知ってるって。指を指すな、指を。握り拳を振り下ろすな。腹立つなあ。
ベンチに向かう。日よけのついた一塁側のベンチには、暗い影が落ちていて、皆の顔もそれにつられるように浮かなかった。戻って腰掛けると、ラスクさんがどんまいと声をかけてくれる。すいませんと返した声が自分で思ったより低くて、俺自身知らずチームの士気に影響を受けていることに気付いた。試合は七回表を終わって5-0と現実的な差をつけられて我等のチームのビハインドだった。
俺が何故野球をしているのかという理由を話すには、随分と時間を遡らなければいけない。乾さんを乗せて彼女の家まで送り届ける途中に、車ごと眩い閃光に包まれた。「ふおあー」とか謎の悲鳴が出たのを記憶している。光が消えるとこっちに居た。そうしてまたまた放り込まれた異世界で、車がどうなったのかだけが気がかりだった。俺だけが生身で、正確には乾さんも含めて飛ばされていたのだ。それは恐ろしいさ。俺の車が大破しているだけならまだ涙を飲めばそれで済むが、運転手を突然失った自動車さんが人を跳ね飛ばしている可能性も全く捨てきらないのだから。頭を抱えて悶絶していたところ、奈々華が病院を勧めてくれた、そんな暇などないと言わんばかりに新しい懸念事項が舞い込んでくる。ラスク・パドリオードその人だった。
「野球の試合の助っ人を頼まれてくれませんか?」
なんでもどうしても負けられない草野球の試合があるとかで、俺はそんなことをするために時速60キロで走る愛車を残し異世界へと馳せつけたということになるらしかった。相応の活躍をすればチームから報酬が出るだとか、相手は長年のライバルとして競い合っているチームで今日負けると今季の幸先を悪くするのでどうしても勝ちたいだとか、そういった事情を聞くでもなく聞いて…… 今に至る。
「ジンさーん! 行きましたよ!」
ピッチャーのラスクさんが声を上げた。遠くのお空にフライが上がっている。ぐんぐんとこっちに向かっている。センターを守る俺は打球を見ながら、落下点を予測して捕球体勢を取る。つもりだったのに、走る途中で太陽が被さってきて、その白い逆光の中に白球は消える。
「ふおあー」
大体ここらへん。芝をスパイクが噛む感触。落下予測地点に入った。目が焼かれるようで上を直視できない。グラブを突き出す。大体ここらへん。本当か俺? 大丈夫か? 下手したらミスターウノだぞ?
「笑止!」
何かよくわからない気合を入れるが、白球はいまだ落ちてこない。見えない。怖い。怖いよ。
「助けて奈々華ちゃーん!」
バスッと乾いた音がして、掌が少しだけ痛い。何が起きたか、頭の表面だけが推測を飛ばして、実感がまだない。捕れたのか? センイチに殺されないで済むのか? グラブの中をおっかなびっくり覗くと、白い球。赤い糸で縫い目。ふう、危ない危ない。ここまでの三打席を二凡退、一安打と物足りない助っ人ぶりを発揮してしまっていた俺としては、その上に一エラーを付けなくてほっとしている。
「ナイッキャー!」
ナイスキャッチを崩したものだろう。チーム全員がそう俺に声をかけてくれる。ライトのオッサンが俺のケツをポンポンと叩いてから、追い抜いてベンチに戻っていく。何だかとても照れくさい。だけど悪い気はしない。
試合に集中しよう。車のことはなるようにしかならない。この人たちは例えそれがプログラムだとしても、組み込まれた思考だとしても、まだ試合を投げていない。次の回は上位打線から始まる好打順。気合を入れなおしたのだろう。ボールをマウンドの上に転がして、俺もベンチに下がる。強く奥歯を噛んでみた。力が湧いてくるような気がしたから本当に俺は単純だ。
ちなみに奈々華ちゃんとサナちゃん、あとついでにパンダちゃんは他の場所で他の仕事をしている。女人禁制だし、そもそも助っ人にならないので当然といえば当然。奈々華は紡績工場、サナちゃんと沼田は飲食店で調理なんかをしているはずだ。稼ごう。俺達はそれぞれが出来ることをやってその対価で面白おかしく過ごそう。口にはしなかったが、散っていく彼女達の背中を見送りながらそう思った。願わくば俺の車の修理代が十分に出るくらいは稼ごう、鏡に映ったダサいユニフォーム姿の自分を見ながらそう思った。