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まだもう少し時間があるので、俺は食事に誘った。断られても仕方ないと思っていた。乾さんはずっと黙りこくっていたから。だが俺の予想は裏切られて、彼女はコクンと小さく頷いた。「無理にとは言わないよ?」と弱気な言葉が自然と口から出てしまって、しまったと思ったが、彼女は胸の前で小さく握り拳を作って「行きたいれす」と声にして伝えた。
ラーメン屋に行くことにした。どこが良いかと聞いたが<お兄さんが行きたいところ>と返ってきて、気取った所に行くのも何だか逆に気まずくさせそうで、そこを選んだ。味は良いが店内はごみごみしていて隠れた名店だと俺が思っている場所だ。車中も会話があまり続かず、完全に二人っきりの場所でこの空気に耐えられないと俺が逃げ腰になっているせいだったと気付く。
黄色いアーケードに「ラーメン」とだけ書いていて、店名もよくわからない。自動ドアなど無縁の引き戸をガラガラとやって店内に入ると、急に後悔が押し寄せた。店内にはカウンター席しかなく、それも木目に沿って黒ずんでいる箇所もそこかしこ。椅子はカバーが破れて黄色い綿が見えているものも幾つかある。壁には汚い字で書かれてた黄ばんだ品書きが貼り付けてあって、同じように黄色く変色した元は白の壁紙に擬態するようだった。床は厨房から飛んだ油でぬるぬるしていて、靴が滑る。いくらなんでも考えなし過ぎたんじゃないか。女の子を連れてくるにはあまりにあんまりじゃないか。どうしてこの店はこんなに人気がないんだ。どうしてこの店はこんなに汚いんだ。廃墟か。最早店主に心の中で八つ当たりをするしかなかった。呆然とやりきれなく立ち尽くしていると、乾さんが俺の手を何故か遠慮がちに掴む。「こういうところ初めてで新鮮です」と。気を遣われたのか、と振り返ると俺の視線から逃げるように店内に目をやった。
「……いらっしゃい」
店内に俺達以外の客はいない。ここの店主は無愛想で、熊みたいな男だった。何だその接客態度は。やる気あんのか。なんでもみあげと髭が繋がっているんだ。飲食業に携わる者としてどうなんだ。ひねり毟ってやろうか。普段は逆に気を遣われるより居心地が良いと肯定的に捉えていた要素も、今となってはマイナス以外の何者でもない。
「……なんにする?」
<醤油ラーメン>と乾さんは紙に書いてツキノワグマの亜種に見せる。ヒゲダルマはあいよと気だるそうに。そっちの兄ちゃんは? と聞いてくるので同じものを頼む。おっさんは厨房の中で調理を始める。袋から麺を取り出して適当に湯の中に放り込む。グツグツと音がするそれを放置して、店の奥へ行ってチャーシューを切り始める。
<何か熊さんみたいです>
「そうだね。熊だ」
俺は返答も漫ろで、乾さんの表情を窺うことに専念していた。テンションに任せてあんなことをさせたが傷つけてしまったんじゃないだろうか。こんなところに連れて来られて内心嫌な思いを重ねているんじゃないか。後悔と気遣いが止まらない。乾さんは俺の視線に気付いたのか、すぐさまわざとらしく前を見る。今まで見たこともない表情に横からは映った。頬に微かな朱が差している。奈々華同様色が白いので、少し赤らんでもすぐにわかる。あんまりまじまじと見すぎたかとまた反省してしまう。
<もっと歌えばよかったです>
ラーメンが出来るまでの間、乾さんが唐突にそんな言葉をメモに書いた。俺は驚いた。そして安直に救われたような気持ちになった。それは本当かい? 時々寂しそうに笑っていたのは、そういうことだったのかい? 言葉が口をついて出かけるのを、何とか抑える。乾さんはその言葉の下にまた何か書き足している。
<あんな風に言ってもらったの初めてでした>
それはそうだ。カラオケに行ったのも初めてなんだから。俺は見苦しくさっきの確認を口にしようとして、また機を失う。
<嬉しかったです。本当に…… 嬉しかったです>
よかった。心の底から思った。俺の直感も捨てたもんじゃないなと思った。そうしてすぐに調子に乗りかけた気持ちを諌める。今回はたまたま、乾さんも本当は歌ってみたかったから上手くいっただけだ。俺の価値観を押し付けていつも奏功するなんて保証はどこにもない。
「また行こう。勿論乾さんさえ良ければだけど」
今度は奈々華や沼田も連れて行って皆でワイワイやったろう。だけど乾さんは困ったように眉を寄せた。ドキリとする。やっぱり調子に乗りすぎたのか。だけど乾さんは俺の予想とは違うことを紙に書き込んだ。
<紗奈でいいです。私の友達はそう呼びます>
友達と書く辺りでペンが宙を彷徨ったのは、彼女も少し気を遣ったのだろうか。そんな気を遣わせてはいけない。
「そっか。サナちゃん。俺のこともお兄ちゃんって呼んでいいよ?」
「……おにいたん」
半分冗談だったが、サナちゃんはそう呼んでくれた。んの発音も抜けるようで「おにーた」と言っているようだったが、そんなことは些事だ。もっと重要なことがある。
「もう一度呼んでみてくれないかな?」
「おにいたん!」
やっと時代が俺に追いついて来たというところか。待ちすぎて首がキリンになるところだった。おにいたん。素晴らしい響きだ。今度奈々華にもそう呼ばせよう。そうしよう。乾さんは照れ笑いをしながら、丁度運ばれてきたラーメンを受け取る。メモ帳をしまうとき、前のページが見えた。いつ書いたのかはわからないけど、<奈々ちゃんがお兄さんを大好きな理由、私にもわかりました>とあった。