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個室に入ると、照明を調整してお互いの顔が見えるくらいには明るくした。乾さんは物珍しそうにきょろきょろしている。来たことがないのだろうな、と冷静に思う。クラスの友達が誘うとも思えない。また誘ったところで、彼女が行くとも思えない。奈々華は何だかんだ俺の世話が忙しく、沼田にしてもバイトがあったりで三人は頻繁に遊ぶことはないと聞いている。俺のように強引に連れてくる馬鹿にでも出くわさない限り縁のない場所だろう。

「何か食うかい?」

乾さんは首を定めて、俺の方を向いてまた落ち着きなく横に振る。あざとく軽食なんかも出す店だった。そう、と返してソファーに腰を落ち着ける。無駄に沈み込む仕様で乾さんが大きく見える。だけどすぐに俺に倣うようにして隣に座るとやはり小さく見える。四角い機械を手にとって、俺はそれの名称を知らない、画面をタッチペンで押す。と、そこで

「乾さんは普段は歌ったりするの?」

そう尋ねると、彼女は困った顔をした。そして暗所ということを考慮してか、俺の手を取って文字を書き込む最初の伝達手段に戻った。「歌うけど、聞き取れないから」とのことだった。口を開きかけて、乾さんがまだ俺の手を放さないので待ってみる。「普段は一人の時に歌ったりしてます」まだある。「それでもやっぱりイヤになって途中でやめます」そこで終わった。悲しそうな顔に、俺を気まずくさせないために重ねた笑みが見ていられなかった。

「歌ってみようよ?」

「え?」

気付いたらそんなことを口にしていた。デリカシーがないと理性はブレーキをかけるのだが、どうにも心が従わない。

「俺の友達に川瀬ってヤツが居るんだけどさ。これが恐ろしい音痴で、歌わすと酷いもんなんだ」

乾さんはキョトンとしていて、俺の急激な話題転換に必死についていこうと頭を働かせているらしかった。

「でも本人は全く気にしないで歌うんだ」

「……」

むっとしているようでもあった。何かを考えているようでもあった。

「こんなのは自己満なんだから好きに歌えば良いと思うんだ。聞き取れなくても、もっと言えば誰かに聞いてもらう必要すらないんだよ」

この子の悩みや痛みはこの子のものだけど、それでもそれを理解したいと思ってしまった。ちょっとでも軽くならないだろかと思った。正しいかはわからなかった。傷つけているかもしれなかった。

「歌いたいなら歌えば良いと思う。勿論イヤならイヤで構わないけど」

もっと単純に考えて欲しかった。嫌われてしまうかもしれなくて、もう二度と俺を待っていることもなくて俺の前で笑うこともなくなるのかもしれない。そう考えると怖かったけど、それでもそうして欲しくなった。健常者じゃないから、そんな理由で自分のしたいことを抑制して欲しくなかった。乾さんは俯いてしまった。座高も俺の方が高いものだからそうされると彼女が何を考えているのか全くわからなくなった。ダメか。そう思いかけたとき、乾さんが何事か喋った。

「歌いあす」

「え?」

「私歌ってみあす」

まの発音が難しいのかも知れない。だけどそれは確かに聞き取れて、彼女の瞳には確かに希望の光が宿っているように見えた。


それから俺が機械を操作して、乾さんが歌いたいと言った曲を選択した。女性歌手が歌う流行のJ-POPだった。奈々華もCDを持っていたような気がする。曲が始まっても、中々乾さんは歌いだすことが出来ず、テレビでは歌詞や映像が垂れ流される。出ようか、と思った。俺が居るから歌いにくいのではないだろうかと。だけど俺は結局動かなかった。今置いて出るのはあまりに無責任で、それこそ一番彼女を傷つけるんじゃないかと思った。それは単なる俺の思いあがりかも知れないけど、ずっと心の中で乾さんを応援していた。

やがて曲も半分を消化した頃、乾さんのマイクが音を拾った。「愛してる」と確かに言った。そうだ、「愛してる。ただそれだけを伝えたい。貴方だけが私の心の壁を打ち破って、本当の私を見つけてくれた……」いつの間にか心の中で復唱している。もう乾さんの声は聞き取れなかった。呂律が回らないように舌ったらずで、聞き取れなかった。だけどそんなことは本当にどうでもいいことだった。彼女が一瞬俺の方を見た。迷子が大人に見せるよりも不安げで儚い表情だった。俺は精一杯優しく笑って頷いた。いいんだ、それでいいんだ。俺の歌も後で聞かせてやる。君の悩みなんて悩む必要なんてどこにもないものだと思い知らせてやる。しょうもない歌唱力で馬鹿みたいに気持ちよく歌ってやる。


結局乾さんはその一曲だけ歌ってそれからは歌わなかった。俺ももう無理強いするような真似はしなかった。実は少しやり過ぎたかもしれないと後悔し始めていた。俺が歌っている間、耳を傾けながらも乾さんは時々寂しそうに笑っていた。一時間くらい歌ってから、俺達は店を出た。



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