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「行ってきます」
「らっしゃい」
バタムと車のドアが閉じる音を聞きながら、校庭に歩を進める奈々華の背を見送った。翌日になってもこっちの俺達の現実世界に居た。単純に交互というわけでもないらしい。視線を上げて彼女の通う女子高の校舎を見る。コンクリートに白い塗装は、スポンジに生クリームを塗ったよう。仏教系とかで奈々華は数珠を持っていたりするが、外装はそれとミスマッチな気がする。校庭の隅にクマシデが細い幹を数本まとめて、まばらな間隔で群生していた。何となく奈々華の背中が校舎の中に消えるまで見送ってから車を出した。
何をしようか。近くの公園に行って砂場に埋まった猫の糞を余すことなく掘り返してみようか。家に帰って鼻から煙草を吸って耳から煙を出す練習でもしようか。昨日も暇だったのだから、今日も暇なのは必然といえば必然だった。そしてやはり昨日も行きたくなかったのだから、今日も行きたくないのは必然といえば必然なのか、彼女は果たして昨日と同じ場所に居た。もしかしてと思って来てみたのだが、居た。俺の車を見るや、わざとらしく下を向いて歩き始めた。よく見ると普段はしていない腕時計なんかを左手に巻いている。時間を計っていたのかな、と俺も時計を確認すると昨日出会った時間とほとんど変わらなかった。近くまで走らせると、また窓を開けて呼ぶ。
「へい、そこの彼女。暇ならボキとお茶しないかい?」
そこの彼女は俯いたまま小さく噴出した。おいおい、呼ばれて初めて気付いたフリするつもりだったんじゃないのかい。乾さんは笑い顔のまま俺を見た。今日は渋ることなく、はっきり頷いて、助手席のドアを開けた。
<ボキって何ですか?>
「高貴な者のみが使うことを許された一人称かな」
本当は昔やったゲームのサブキャラが使っていた…… ような気がする。何でさっき出てきたのか自分でもわからない。乾さんはまた笑った。奈々華とは違って本当に子供が見せる笑顔に見えたのは、多分彼女の体が小さいせいだけではないと思う。
「今日はどこへ行きたい?」
どうして学校に行きたがらない? いつもそうなのか? いじめられているのか? 乾さんは紙面に目を落として指を忙しなく動かしている。
<お任せです>
そのメモ帳が何か関係するのかい?
「お任せかあ。参ったね。食い物屋は幾つか美味い所を知ってるけど朝からはね。遊ぶとこと言ったら……」
パチンコ屋や競馬場に連れて行くわけにもいかない。
<だったらカラオケに行きませんか?>
「今からやっている所なんてあるかなあ?」
駅前にある店は夜間のフリータイムが終わって、再開は昼頃ではなかったか。乾さんは俺の返事を聞いて少し寂しそうな顔をした。慌てて二十四時間やっている所はないか考える。風営法とかで無理じゃないのか。
<そこは、俺一人が歌う羽目になるからイヤだよ、って言って欲しかったです>
悪戯っぽく笑う。乾さん、その自虐は俺には笑えないよ。ついでにその返しも俺には無理だ。と、そこである店を思い出す。漫画喫茶とビリーヤード、ダーツ、カラオケなどなど、ぶち込めるだけぶち込んだ元が何なのかもわからない店だ。多分漫画喫茶なんだろうけど。乾さんが住む街の最寄りの駅前になかったか。
「なあ、乾さん。俺の汚い歌声を披露できる場所があるよ」
「え?」
驚いた顔は一瞬で、次いで期待をその小さな、いや大きいんだけど、胸に膨らませたような、輝いた瞳を俺に向ける。我ながら名案だと思った。あそこなら俺の歌なんざ聞かなくても他にも娯楽がある。飽いたなら俺が喉が潰れるまで歌っている傍で漫画でも読んでいればいい。最悪個室に残してダーツにでも興じればいい。多分俺は一人むせび泣くだろうけど。
「行こうぜ?」
「え、でも」
これくらいの発音なら普通に聞き取れる。っていうか君が言いだしっぺだろう。
「いいからいいから。悪いようにはしないから」
本当にナンパでもしているような気持ちになるが、対案もないのだから推してみる。乾さんは少し怪訝な顔で頷いてくれた。