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集まって話すほどのことはなくても、色々と考えることはあった。昨日の、異世界二日目の朝のことだ。奈々華の着替えはベッドの脇にあって、やはり靴はたたきにあった。随分と都合よく出来ている。ひょっとすると、裸で寝ていても下着まで用意されているんじゃないか。誰が判断しているのだろうか、ということだった。スムーズにゲームに入るために必要であろうと考えられる身の回りの品を過不足無く用意しているのは誰で、どういった基準でそう判断しているのか。対面に新たに増えた椅子の赤いカバーをぼんやり見ながら考える。すぐに身の毛もよだつ一枚の画が脳裏に浮かんだ。例の黒いローブの変態たちが、ビルの屋上かどこかから俺の部屋を望遠鏡で覗いている絵図だ。一気に煙草が不味くなったような錯覚さえ覚える。機械だ。機械ということにしよう。あんなに精巧なロボットを作る科学技術を持った集団なんだから、そういった判断を下せる機械があったって不思議じゃない。
次いで時計のことを思った。これはある程度の推測を持っている。恐らく一日を正確に計らせないためだろう。いや、推測と言うほどのものでもなく、それぐらいしか考えられない。だが理由はわからない。同条件でやらせれば不公平も生まれないというのに。保留事項だった。
首が凝っているような気がして、左右に傾けてみるが何の音もしなかった。大袈裟に肩を落としてみたが、今俺の部屋には他に人は居なかった。
時計を持ち込めないのはわかったが、今回の帰還でその逆も然りだとわかった。つまりあちらでの持ち物はビーリングと換金した金以外は例え肌身離さず持っていたとしてもあっちに残留ということになるらしかった。時計を持って来れなかったことで、試しに地図をポケットに忍ばせて眠ったのだが、今朝起きたときにはなくなっていた。これは理由もわかる。ゲームは厳密に向こうでの二十四時間に限定するためだ。地図を持って帰って、周辺の地理を把握しようと思っていたその浅ましい根性にノーを突きつけられたわけだ。
思考をそこで区切った。足に力を込めて深く沈めていた腰を座椅子から離す。階下から奈々華の声が聞こえたからだ。時計を確認するといつの間にゴールデンタイムとやらで、テレビではクソくだらないバラエティーでもやっている頃だ。配膳くらいは手伝ったのに、と階段に向かいながら出来すぎた妹が台所を忙しなく動く様子を思い浮かべる。段々下まで下りて行くと、まだ何かしているのか、トントンとリズム良く包丁をまな板に打ちつける音がしていた。唐突に、ああ俺の家だと実感した。安心した。異世界から帰って来た俺は、奈々華に向こうでしたように暮らそうと話した。奈々華もそれを望んでくれた。よく思い出せないことも多い向こうでの生活だったが、確かに誰かを殺め、それも複数の人間だ、奈々華に支えられて暮らしていたことだけは胸の内に残っている。記憶が判然としないのに、感情だけは残っていて、まるで他人の脳味噌を植えつけられたようで、気味が悪くて戸惑ったが、彼女と仲直りしたことだけははっきりと覚えていた。そしてそれだけが自分の脳味噌が自分自身のものであることを証明するような、彼女との絆だけが唯一のアイデンティティのような気がして、俺はそう提案したのだ。勿論彼女を好いているということだけでも十分そうしただろうが……
居間に通じる戸を開ける。奈々華は俺の記憶と変わらない笑顔で出迎えてくれる。仔犬のように懐いてくれる彼女の笑顔はとても尊いものなのだと気付かなかった俺は相当の馬鹿で、逆説的にそれでも笑ってくれる彼女はとても尊いのだった。食事はカレーとサラダ。匂いでわかってはいたが、その姿を拝見すると余計に食欲をそそる。奈々華が遅いよと苦言を呈しながら、それでも怒ってなんていなくて、俺の席の対面に座る。食事が終わったらいつもありがとうと口にしよう。美味しかったよと言おう。そんなことでしか報いることが出来ないけど、そんなことで嬉しそうに笑ってくれるから、せめて心を込めて伝えよう。