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「そう言えばサナが来てなかったんだ」
奈々華の言葉に内心ギクリとした。まさか連れまわしていたとは言えない。乾さんは奈々華の授業が終わる少し前に丁重にご自宅へと送還し、その足で迎えに来たわけだった。何だか浮気でもしているような分刻みのスケジュールに乾いた笑いが出た。
「へえ。疲れていたのかな」
平静を装う。この娘っ子はとても鋭いので殊更気をつけた。助手席をチラリと流し目に窺う。さっきまではその話題の主が座っていた場所だ。
「そうなのかな?」
奈々華は心配そうに眉を寄せた。チクリと罪悪感。話題を変えよう、強く意識した。
「なあ、ところでさ。金も手に入ったし、座椅子を買いに行かないか?」
苦しいかなと思ったが、奈々華は鸚鵡返しに「座椅子?」と聞いてきた。少し前から思っていたことだ。いつまでも膝の上に座らせているのも芸がない。いや、本音を言うと夏を思った。夏、また彼女は自由参加の補習授業に出るだろう。その時に、また俺の部屋に来て教えてくれとなった時のことを考えずにはいられなかったのだ。暑苦しそうだ。
「いつまでも俺の膝の上に座らせるのも悪いしさ」
「……イヤ?」
イヤじゃない。そうじゃない。というよりお前がクッションを持ってくればそれで万事解決なんだが。
「まあ買おうじゃないか」
と強引に会話を切り上げると、俺はホームセンターの方にハンドルをやる。住宅街の中にポツンとため池があって、そこに隣接して建っているのがそれだ。もう目に見える。俺たちが越してきてしばらくして建ったものだが、便利になったと近隣住民にも好評だ。奈々華が不承不承といった感じで微かに頷く気配を感じた。
ポリエステルのカバーを被ったそれは俺のものと同じ型番の色違いとなった。商品のラインナップが一昨年と同じってのもどうなんだ、と経営者に聞いてみたくもなったが、流行すたりがあるものでもないかと勝手に納得してしまう。赤と青が揃うことになる俺の部屋を少し想像してみる。狭くなるだろうな。慣れるまで夜トイレに行くときなんかに、足の小指をぶつけて悶絶したりするんじゃないかな。取りとめもないことを帰りの車中で考えている。奈々華はまだ納得がいっていないのか、店内でも勿体無いやら必要ないやら散々呟いていた、ブスッとしている。「たまには俺の膝の上にも座っていいからさ」と宥めても無言。可愛いは可愛いのだが、どうにも懐きすぎているような気もする。話題を変えよう、また思った。
「乾さんはさ……」
ふとどうしてか乾さんの顔がちらついて、気付いたら口にしていた。だけどその先に詰まった。
「……なに?」
ぶっきらぼうな返事。いつもメモ帳を持っているの? と、心は尋ねたかった。どうしてそんなこと知っているの? と返ってきたらマズイと頭がブレーキ。そして更に、人づてにばかり相手のことを聞くのも良くないなと思った。沼田のことも然り、奈々華が話す分だけ、本人が話す分だけ聞くのがベターだと考える。
「ああ、いやさ。体が弱いのかい?」
結局さっきの欠席の話に回帰させた。奈々華はほんの少し訝しんだが、すぐに返答を考える顔になった。
「ううん。別にそんなことはなかったと思うけど…… 環境が急激に変化したからかな」
とってつけたように笑う。
「私達みたいに異世界慣れしてるわけでもないし」
とってつけたように言う。今度は俺が、何か隠しているんじゃないかと怪訝に感じる番。だが詮索する気は起きなかった。奈々華が言わないほうが良いと判断したなら、それは乾さん本人から俺が聞くべきことなのかもしれない。
「そうだね。まあ今日はそっとしておいてあげよう」
向こうの世界でもある程度体勢は整ってきた。今日は集まって何かを話し合うって感じでもないだろう。奈々華も同意を示してくれた。