21
夜中に目が覚めた。汗なのか涙なのかわからない液体で滲んだ視界に、白い変哲のない部屋の壁が映る。カタカタと震えていることに気付く。どんな夢を見たのか思い出せない。だけど嫌な、怖い夢だったのだろうとは容易にわかる。身体を抱こうと腕を動かしかけたとき、そっと胸に腕が回ってきた。俺のじゃない。驚いて首を動かすと、奈々華が居た。砂漠にオアシスを見つけたように、心の中に言葉に出来ないほどの安堵が広がる。いつの間に、俺の部屋の俺のベッドに入り込んでいる。
「大丈夫だから」
そう呟いた。俺がこっちに戻ってきて一週間、これで三度目だ。つまりは燃えるゴミの回収日みたいに頻繁だった。しばらくしたら収まるのだろうか。延々と、生きる限り、続くのだろうか。
奈々華の組まれた指を見る。小さな手だ。俺のより一回り小さい。魔法だ。ぼんやりと思った。そうじゃなきゃ説明がつかない。こんな小さな手が、毎日食卓に座ると美味しい飯を食わせてくれる。毎日タンスを開けると綺麗な服をしまっていてくれる。毎日汚い俺の部屋を綺麗にしてくれている。毎日俺がうなされていないかチェックして、そうなっていたらこうして抱いてくれる。その小さな手で。
「大丈夫だから」
繰り返す。耳に心地良く、身体が心地良く、母親が子守唄を歌う傍の揺り篭に揺られるように、俺はもう一度眠ることが出来るらしい。意識が遠のく感覚。上も下も横も縦もない暗い闇に包まれるというのに、そこには俺を苦しめる意識の片鱗がいるかもしれないのに、背中にある体温が絶対で不変で普遍だから、そう思えるから心の底からの安心をくれる。光だ。薄れ行く意識の底で思った。
伸びをする。寝苦しい夜だった。目を擦ると、視界が開けて、昨日寝る前に見た景色と全く違う光景を脳に伝えてくる。その主原因は主に二つだった。一つは、すぐ隣の布団のふくらみ。奈々華だ。いつの間にこの甘えたは、と微笑みかけたところで、夜中に一度目をさましたことを思い出す。霞に覆われたように判然としないけど、奈々華に抱かれていたような気がする。胸に微かな体温が残っているような気がする。また守ってもらったのかもしれないなと瞳を閉じて、心地良さそうに眠る奈々華に心の中で無尽の感謝を告げる。
もう一つは、見知らぬ部屋の内装だった。正確には全く知らないわけではない。ただ馴染みがない。白い壁紙にはヤニに黄ばんだ跡もなく、境界を見誤りそうなほど同じように白いカーペットにも煙草の灰を落とした跡がなくて、木で出来たテーブルは頑丈そうで、白いポリエステルの皮を被ったソファーも座り心地が良さそうだ。異世界の最後に見た部屋だった。
「奈々華」
肩のあたりを持って少し揺すってみる。寝覚めの良い彼女はすぐに目を開ける。「おはよう」と眠たい子供が出す、甘えるような声で挨拶をしてくれた。俺も返すと自然と笑みを含んだ声音になっていて、微笑んでいることに気付く。だけどそんな和んだ空気を俺が保っていられるのもその間だけだった。
奈々華が起き上がると、俺はさすがに目のやり場に困った。寝苦しい夜に、奈々華のパジャマは第二ボタンまで外れていて、白い肌が露出していた。昨日の夜、膝の上に座る奈々華の胸元から偶然視認出来た水色の下着はつけていないようだった。良い所、いや際どい所まで見えそうだ。ガン見したい欲望に辛勝、視線を外してベッドを下りる。
「また来たんだね」
奈々華が背後から声をかけてくる。みたいだね、と小さく返す。そのまま歩いて、朝日を遮ってぼんやり白んでいたカーテンを開ける。二階から見渡すとレンガの尖塔に太陽が突き刺さっていた。