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二人を送ったあと、晩飯の話になった。テレビでは忍者の卵が色んな事件に巻き込まれて、悪戦苦闘するアニメが流れている頃合だ。助手席にちょこんと座る奈々華に目だけ動かして話しかける。
「どうする? 何か買って帰るか? 外食しようか?」
「お兄ちゃんに任せる。作ってもいいよ?」
奈々華はそう言うと思った。
「奈々ちゃんも疲れているだろう? 色々あったし」
環境の急激な変化。精神の疲れは身体の疲れにもリンクする。
「私は別に。お兄ちゃんにおんぶしてもらってたし」
あの仮病を思って苦笑する。だけど言葉に奈々華の気遣いも含まれていることに、俺はちゃんと気付いている。俺は今あまり金がない。自業自得の困窮だが、この出来た妹はそこを考慮に入れてくれている。じゃないと奈々華が俺との外食を渋ることはない。作るのが面倒とかそういうことではなく、単純に俺と外で食事をするのを喜んでくれる。倒錯しそうにすらなる純真さで、俺はいつも温かい気持ちになる。
「ファミレスにしようか?」
「……うん。お兄ちゃんが食べたいところで」
決定。最後は折れてくれる。口ではなんやかんや言うが、根底にはちゃんと俺に敬意を持っているようで、主導権を渡してくれる。少しの沈黙を挟んで、俺は口を開いた。
「なあ。奈々華。俺のお嫁さんになってくれないか?」
結婚するならこんな子が良いな、と思ったらそういう冗談も出てきた。人をドン引きさせるような冗談を軽く口に出来る俺はやはり一流なのだと思う。一流のカスなんだろうと。きもいという言葉は誉め言葉と言わんばかりに奈々華の返答を待っていると、想定外の動きをした。
「え? でも、え? そんな。本当に…… え? 嘘」
テンパリ過ぎだ。
「……冗談だよ?」
なあんだ。やめてよお兄ちゃん。そんな返事をまた予測する。またまた裏切られる。明らかに怒った顔を一瞬見せて、肘を窓際につけてそこに顎を乗せて景色に没頭しだす。こっちから見えるのはやや斜めの後頭部だけ。
「あれ? 奈々華?」
「……」
「おおい。なっちゃんや」
「……」
返事がない。ただの妹のようだ。やってしまったかな、と今更ながら反省する。行き過ぎた冗談だった。ほんの少しだけ、俺の理想の女性を重ねて見てしまったことが、照れくさくて戒めたくて、考えなしに言ってしまった。難しい、とつくづく思う。いくら大人びていると言ってもこの子は難しい年頃だ。そのことを忘れて、まるで年上の女性を相手にしているような錯覚が心を支配している時がある。
奈々華の後頭部をまたチラリと窺って、短くなった煙草を備え付けの灰皿に押し付けた。
ファミレスで向かい合わせに座っても、奈々華は伏し目がちで、俺が何を言っても無愛想な返事が返ってくれば良い方だった。仕方がないから俺は奈々華の胸元に目をやる。彼女にしては珍しく少し開いた服を着ていた。左の胸のつけねに小さなほくろが見えた。その上、ネックレスは俺があげたものだ。数字の七を重厚なメタリックの銀装飾で囲んで、中々いかす。奈々華とかけたつもりであげた半分ギャグだったけど、大層喜んでくれた。
いよいよ悪いことをした、と思いはじめる。折角楽しい気持ちで、俺があげたネックレスまでつけてくれている奈々華を嫌な気持ちにさせてしまった。どうして、いつも勢いだけで物を言ってしまうのだろう。
「……決まった?」
メニューに目を落としていた奈々華は、コクンと小さく首を縦に振った。店員を呼んで注文を受けてもらう。奈々華は言葉数すくなく、「コレを」とメニューの写真を指差してした。
気まずい雰囲気を料理より堪能させられて、俺はげんなりしながら部屋に居た。コンコンとノックがしたのは座椅子にだれながら煙草を二本吸い終わった頃。「どうぞ」と丁寧な言葉が出て、改めて自分の妹への依存を確認した気持ちになる。もう失いたくはないんだ。仲直りのことしか考えていない。
ガチャリとドアノブが回り、奈々華の姿が見える。やはり目を合わせないままズカズカと入ってきて、俺の膝の上に座る。手には教材がある。
「今日は学校行かなかっただろう?」
「だから」
それだけじゃわかんない。と思ったけど、だから今日の範囲を自分でやっておくということなのかと推測が立つ。果たして教材を開いて、それは教科書だった、黙って読んでから例題を解いていた。いつもは付属の問題集を開いてそれをやっていることを考えると恐らくは俺の推察どおり。しばらく睨めっこと鉛筆を動かす作業を交互にやっていて、部屋には沈黙が生まれる。
「そこ間違ってるよ?」
そもそも使う公式が違う。何をやっているんだ、と不思議に思う。奈々華は返事もなく、消しゴムを動かす。
「また間違ってるよ?」
また公式が違う。やはりおかしい。普段なら有り得ない間違い方だ。そこでやっとこさ間抜けな俺は気付く。謝る機会と時間をくれている。何のために俺の部屋に来た? わざと間違って時間を使っているのは何のためだ? おっきな赤ちゃん。言いえて妙。
「奈々華、ごめんよ。俺考えが足りなかった」
「……」
「冗談でも言っていいことと悪いことがあるよな…… ほんとにごめん」
「反省してる? ていうか本当にわかってる?」
顔はこちらに向けず。
「わかってるよ。もう二度とあんなこと言わない」
「……」
「奈々華?」
顔が見えない。何を考えている? 何を思っている? はあ、と溜息。疲れたような呆れたような。
「もういいよ。私も身勝手だった」
身勝手? 何がどう身勝手だったのだろう。どちらかというと身勝手は俺だった気がするのだが。ポンと鉛筆を教科書の上に投げて、奈々華は俺の腹に背を預ける。
「ずり落ちそうだから支えてて」
俺は足を伸ばしていて、奈々華は俺の膝小僧の手前に腰を落ち着けているのだからずり落ちるってことはない。口にするほど野暮だったらいよいよ愛想を尽かされてしまったかも知れないけど、俺は黙って奈々華のお腹に手を回す。柔らかい。温かい。変態。言いえて妙。いやそのものか。
サラサラと問題を解いていく奈々華は、あとは指摘する部分すらなく、しばらく鉛筆の音だけが俺の部屋を支配していた。