19
ソファーに横になると、奈々華の膝枕に後頭部を沈める。いつも通り高さも柔らかさも完璧だ。苦しゅうない。そのまま横を向くと奈々華のお腹辺りを見つめる。指が頬に触れる感触。耳にふわふわとした綿毛が差し込まれる。優しく、それでいて時々強く耳垢をほじくる。苦しゅうない。
「お兄さんって、人の尊厳みたいなのはないんですか?」
失礼なパンダだな。中国に送り返せ。
「あるわけないだろうが」
会話が途切れる。そもそも妹に耳かきをされてケツを向けている人間とまともに会話をしようというのがどうかしている。つまり俺は悪くない。溶けた飴のようにグジグジした地帯を、奈々華の綿棒が捉える。引き抜くと、耳の通りが即効に良くなったような気がするものだから人ってのは単純だ。
「おお。いいぞ奈々華。まだ居るから沢山ほじりだしてくれ」
「はいはい」
グリグリ、グジュグジュ、と擬音を頭の中で補っていると何だか楽しくなってきた。本当に俺は一体何歳児なんだろうな。
「まあなんていうか、ラブラブで結構なことで」
沼田が呆れた口調で言う。後ろを向けているものだからわからないが、口ほどに顔は冷たくなくて、丁度猿の毛繕いでも見るように和やかなんじゃないかと思う。
「そうそう。ラブラブだよね、お兄ちゃん?」
そこで腸の動きを感じる。弛緩しきった体はケツの締まりも当然に悪くする。ブバッと良い感じの屁が出る。パチンと頬の上で何かが弾けたような感触。手加減された奈々華の張り手だ。
「無視しないでよ」
「屁んじしただろう」
「おならで返事された人の気持ちって考えたことある?」
そういえばないな。奈々華は俺の前であまりしたことがない。いやむしろ…… 頭の中の記憶を探る。聞いたことがないかもしれない。
「今度お兄ちゃんに聞かせてくれないか? 君のおなら」
「変態」
「変態」
奈々華と沼田の口撃はほぼ同時だった。
「でも本当にしばらく話もろくにしなかったなんて信じられないですね、だって」
乾さんの筆談を沼田が読んだ。何のことを言っているんだ、と頭を動かしたのは一瞬。すぐに二人の雰囲気から俺達兄妹のことを話しているのだとわかった。確かに俺達には三年近くの空白がある。嫌われたと思い込んだ俺が勝手に奈々華を避けていた。
俺は隣に座る奈々華を流し見る。君はそんなことまで話していたのか。責めるつもりは毛頭ない。彼女が信頼して話したのだろうから、俺から言うことはない。
「なんかお兄さんのシスコンを治すために距離を置いていたとか聞いてたけど……」
あるなあ。言うこと。言いたいこと。奈々華の顔を覗きこむようにして見つめる。いや、眉を無理矢理寄せてガンを飛ばす。気付いてないわけがないのに、奈々華は俺と視線を合わせようとしない。方便を使うにしても、随分と都合が良い嘘じゃないですか、奈々華さんよお。
「どうも逆みたいですね」
良いぞ沼田。思考の表面は楽に考えている。だけど奥の方では、逆だろうかと自問。俺の奈々華への依存度もちょっと半端ない。意味のないガン飛ばしをやめて前を見る。沼田も乾さんも女性を感じさせる優しい笑み。ああ、なるほど。透徹されている。沼田は口では俺の方を立てただけのようだ。
「でも良かったです。最近の奈々華楽しそうだから」
また乾さんが沼田の指の動きを言語化する。
「大変だよ。大きな赤ちゃんを世話してるようなもんだから」
咄嗟に反論しかけて開いた口はそのまま音を発することなく閉じられる。返す言葉がない。やはり二人はそんな奈々華の照れ隠しも見抜いていて相好を崩したまま。
義務だ。そう思った。異世界でのことだ。この三人の子供達の笑顔を守ろう。義務は自分で自分に課す掟のようなものだ。俺はやりたくないことはしないから。
沼田がアルバイトの就業時間が近づいているとかで帰ると言い出し、俺と奈々華は二人を送っていくことになって、楽しい時間は終わった。誰かとの会話の終了に、名残惜しさすら感じるのは俺にとって中々珍しいことだった。