15
胸元にひやりとした感触がして一気に眠気が覚めた。頭の隅では牛乳パックに口をつけて直接飲もうとしたこと、そしてそれが上手くいかなくて零したことを認識していた。ついで上から手が伸びてきて牛乳を拭き取っていく。顔を上げると奈々華が柔らかく笑っている。ああなるほど、「可愛い」のだろう。奈々華は寝ぼけた俺をして「可愛い」と表現する。妹に可愛いがられる兄というのも示しがつかないのだが、彼女の好きにさせている。
「こぼちちゃったの?」
赤ちゃん言葉は容認できないが。ごしごしと布巾が俺の胸を擦るたび、ゆっくりと頭が覚醒していく。寝ぼけている間の記憶はいつだってモヤがかかったように曖昧だ。立ち上がって台所に向かって…… 何か引っかかる。
「ほら。昨日もお風呂入らないで寝ちゃったんだから、目が覚めたら入ってしまいなさい」
お母さんよろしく、奈々華は相変わらず甲斐甲斐しい。昨日は風呂に入らなかったっけ? 昨日。昨日、昨日…… はっと頭を殴られたように記憶が戻ってくる。立ち上がって辺りを見回す。フローリングは奈々華が定期的にワックスをかけてピカピカ蛍光灯の白を反射している。目を上げる。カウンターキッチンは壁を一部切り取ったように向こう側を見渡せる。テーブルと椅子。白を基調にツツジの花をあしらった模様を混ぜたテーブルクロス。俺の家だ。
「奈々。俺達はいつの間に帰ってきたんだ?」
「まだ寝ぼけてるの? お兄ちゃんが眠ってる間に二十四時間経って帰ってきたじゃん。さっき起きた時に帰って来たのかって呟いてたよ?」
知らない。記憶にございません。奈々華は呆れ顔でお風呂入ってきなさいと繰り返した。
アコーディオンカーテンを緩慢な手つきで開けると、脱衣所。見慣れすぎた光景に本当に帰って来たのかと額に手を当てる。もしかするとアレは最初から俺が見ていた夢なんじゃなかろうか、などと思えてくる。着替えをポンと収納ラックの一番上の段に置く。下の段からボディータオルとバスタオル、フェイスタオルと取る順番も体が覚えたとおりだ。ふと左手に目が止まる。指輪だ。アクセサリーの類を嫌う俺がこれを着けているのは、昨日の出来事が夢なんかじゃないことを訴えかける。そうだよな、あんなリアルな夢があってたまるか。逐一みんなの表情まで思い出せる。気の遣いすぎか。そんな中で奈々華の言葉が気になっている。奈々華はもう慣れたものだけど、二人はどうだろうか。付き合いが深まるにつれ、俺のその不必要なまでに気を揉む性根が受け入れられるだろうか。無理にテンションを上げていたような気もする。防衛策か。上半身を裸に剥いて、横にずれて洗面台に両手をつく。陶器のひんやりした温度が手の平に伝わる。鏡を見る。自信の欠片も見えないつまらない顔だ。ヒゲが伸びている。体ばっかり大人になって、俺の心は成熟を果たしていないのではないか。
「やめよう」
厳しいもう一人の自分が顔を上げるたび、弱くて自分に甘いもう一人は顔を下げる。こうやって昨日の自分に本当の自分に負け続けて今の俺は成り立っている。指輪を引っ張る。痛い。もう一度引っ張る。引っ張る。引っ張る。
「……」
抜けねえんだけど、これ。