12
森まで来ると、空気は澄み、星が多くて夜の中にあって意外に明るかった。天気が良いのも幸いした。まさか参加者の船出を祝して天候まで操れるのか、なんて馬鹿げた考えが浮かんで一人苦笑する。
「お兄ちゃんなんか嬉しそうだね」
「ああ。肩の荷、いや背中の荷が下りて動きやすい」
「……ぶう」
唇を突き出して隣の奈々華が冗談ぽく怒ってみせる。気温も過ごしやすく、ひんやりとはしていても寒くはない。
「まあ、結構歩くことになるかもしれない。疲れたらまた負ぶってやるから言いなさい」
やれやれと優しい気持ちになる。やったあ、と奈々華。いつの間にか手ごろな木の枝を持っていて、それを魔法のステッキみたいに、宙に円を書きながら歩いていた。
あてもなく歩いているわけではなかった。爺さんの話では森の中ほどに小さな滝があって、その近くに件の犬の群れが生息しているんだそうな。ちなみにその滝は脈々北の山から流れ落ちる大きな河で、街へと注ぐそれだった。道中街と街を繋ぐ街道にも沿って流れていた。だから今は河沿いを上流へと歩いているわけだ。時折飛沫が頬を濡らして余計に清々しい気持ちになる。
滝が落ちる場所は、水の勢いが強く、長い年月をかけて地面を抉り、泉のようになる。雨だれが石を穿つよりももっと力強いプロセスを頭に描いてみる。
その泉から本流へと流れるその場所は、一際空気が湿度を帯びていて落差が少なくとも滝のダイナミズムを堪能できた。野生の犬がそういう場所を好むのかは知らないけれど、もしかしたら参加者にわかりやすい目印として半ばご都合に設定されたのかもしれない、飲み水には困らなそうだった。
「ねえ、あれ」
奈々華が俺のシャツの袖をクイクイ引っ張る。言われるまでもなく気付いていた。河の対岸に目をやる。泉の隣には当然に木立が続いているわけだが、その中に茶色い体色の犬が一頭。アレがそうなのだろう。
「さしずめ見張りってとこだろうね」
犬は既に俺達を視認していて、警戒の色を濃く含んだ瞳でじっと見つめてくる。すぐさま群れの仲間を呼んで夜食を狩りに行こうという獰猛さは感じられなかった。こちらが手を出さなければ、群れに近づかなければ、自発的に襲ってくることはない、そういう賢さを感じた。夜食なら強くて賢い人間を相手にせずともウサギでもとればいい。
「どうするの?」
どうするもこうするも。
「行くしかないだろう。仕事を請けた以上」
奈々華にここで待っているように指示して、一人河へ近づく。近くの少し太くて頑丈そうな枝を手折って武器とした。
見張りの犬が「わおーん」と大きく通る声で鳴いた。
犬たちをぼんやりと眺めた。多分オスなのだろう、後ろのより少し大きな身体をした数体の犬が牙を剥いてこちらを威嚇している。防波堤のようにメス達の前に立って進路を塞いでいる。グルルルと唸りながらも賢いコイツ等は恐らく俺とまともにやって勝てる算段がないのだ。野生の生き物はとても賢い。普通の動物ならそれこそ尻尾を巻いて逃げるのだろう。だけどそうしない。
繁殖期を迎えた彼らは、その後ろに子育ての最中のメスを守るのだ。現に目的である小さな犬を何匹か見つけた。メスの腹の下に庇われるように居る。大人の半分にも満たない。ほんの仔犬。つぶらな瞳には子供ながらに怯えを敏感に映していた。右手を見つめた。枝の先端がひどく尖っているように見えた。これを振り回して、彼らの目の前でお父さん達を殴りつけるのか。気が入らない。仕事、言い聞かせても意味はない。
「……やめよう?」
警戒もそこそこに振り返ると奈々華が後を追ってきていた。
「可哀想だよ」
まるっきり俺が悪者だ。実際そうなんだから困る。
「あ。別にお兄ちゃんを責めてるわけじゃないよ? でも可哀想だから……」
そんなことはわかっている。お前はそんな薄情じゃない。やがて俺の右手から枝がするりと落ちる。地面に落ちて小さな音を立てた。オス達が一様にギクリと身体を硬直させる。
「そうだな」
呟いていた。遮二無二金を稼いで、仮に優勝をモノにしても、奈々華に嫌われたんじゃやりきれない。いや、そもそも俺がやりたくない。気持ちの入らない仕事なんて…… 現実世界の、社会人になればイヤでもやることだ。今はそんなことをしてまで金を手にする必要は無い。楽しいことをして、こっちで暮らす僅かな金があればいい。隣で奈々華が笑っていて、沼田が俺をおちょくってきて、乾さんがにっこり微笑んでいればそれが一番いい。それはこのゲームの本質から逸脱しているだろうけど、知ったことか。
「邪魔したな。悪かった」
犬たちに謝る。ペットとして需要があるのだから、多分他の人間が子供達を攫いに来るだろうが、俺には関係ない。俺達がやることじゃない。そう思った。背を向けても襲い掛かってくる気配はなかった。そのままもと来た道を引き返す。奈々華もいつの間にか木の枝を捨てていて、その空いた手が俺の手を柔らかく握り込んだ。