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あらすじでも書いていますが、なるだけ前作をお読みいただいているほうがご理解が早いかと思います。
階下に下りると家は静まり返っていた。当然奈々華は学校に出かけていた。居間の掛け時計を見ると十時半を少し過ぎた頃。十一時間くらい寝ていたのか。腹が減った。テーブルの上に、奈々華が用意してくれていた弁当がある。兄妹の仲がよくなって、こっちに戻ってきて一週間。風のような速さで奈々華は弁当箱を用意してくれた。春休みだというのに、役に立つなんて思わなかったが。
ステンレスの味気ない弁当箱の蓋には、奈々華の顔を撮ったプリクラが貼られている。何かばっちり決めているのが腹立つ。どうして貼っているのかはちょっと俺にもわかない。聞いてみようとも思うが、下手に藪を突いてアナコンダでも出てきたら始末に終えない。結局、触らぬ妹に祟りなしだ。二段重ねのそれを展開すると、飯が詰め込まれている方、その白米の上にふりかけで丁寧にハートマークが形作られている。
「ふう」
疲れた溜息は自然と。馬鹿じゃなかろうか。俺の大学が始まる前には何とかこれだけでもやめさせようと思っている。こんなものを他人に見られた日には恥ずかしくて死ねる。
味は問題なく、ぺろりと平らげたが、ここで問題。足りねえ。三輪車ほども役に立たないくせに、ベンツのように燃費が悪いのが俺の持ち味だ。冷蔵庫を漁る。特に目を惹くものはなくて、上の段、冷凍庫を開ける。途端に涼しい風が頬を撫でていく。カップのアイスクリームがあった。だけどこれは奈々華のお気に入りで、そもそもおっさん化著しい昨今の俺は甘いものをもう好まない。扉を閉じかけて、ふと付箋が目についた。カップの蓋のところにピンクの紙切れ。取って見る。「食べてもいいよ」語尾にもハートマーク。危ねえな。兎に角好意に甘えて食うことにしよう、と蓋を開ける。無性に切なくなった。
カップの中のアイスが綺麗に半円だけ食われている。最初にスプーンを入れて割ったのだろう、その姿を思い浮かべると、涙が出そうだ。半分といわず全部食っていいから。ていうか俺を何歳児だと思ってるんだ。一番悲しかったのは、結局スプーンを取り出して、その残骸をむさぼり食ったことだ。
奈々華が春休みにも関わらず学校に行くのは特講のためだった。進学校に通う彼女は血の繋がりを疑うほどに俺とは正反対の勤勉さを持ち合わせ、自由参加のそれに毎日顔を出しているのだ。俺だったら時給が発生しても行かない自信がある。それでいて俺の昼のエサまで用意して出て行って、帰ってくるとその他の家事もキチンとやってくれるんだから、そろそろ尊称をつけて呼ぶべきかと思う。奈々華様。そういう風俗店を思い浮かべて、何かいやらしい気持ちになる。俺はもうダメだ。変態罪で捕まって死刑になればいいのに。
そんな自慢の妹だが、こちらに帰って来て俺に一つだけ頼みごとをした。毎日の迎えをやって欲しいというのだ。ここいらは治安が良くて、しかも大抵寄り道せずに大通りを通って帰ってくるので然程心配していなかったが、本人は一人での帰路に不安な思いもあったのかもしれない。彼女は俺とは違って顔立ちが大層良く、鼻にかけるようなことは勿論ないが、それでも無自覚なわけもないので人一倍警戒があるのかもしれない。危機管理をしっかりしておくのは良い事だし、そもそも家事全般を丸投げしている俺に毎日の迎えくらいは断る気も資格もない。そんなわけで半ドンの奈々華は、俺がアイスを食べ終えたあたりで最後の時限の始まりを迎えているはずだった。
身支度を終えて家を出ると、外はザーザー降りの大雨だった。
「ちょっと気付こうぜ、俺」
車に走り込んだ。