当て馬令嬢に転生したら、幼馴染騎士が“甘すぎる”んですけど!?
普段はムーンライトノベルズに投稿しています。
今回はR描写までは行き過ぎかと思いとりあえずの
R15描写にしております。よろしくお願いします!
「エリナ、君を離さない。」
「アンドリュー様……」
劇場の恋愛ドラマでも見せられているかのように、目の前で熱い抱擁を交わす二人を私は少し冷めた目で眺めていた。
その瞬間、胸の奥で「あぁ、そうか」と腑に落ちる感覚が走る。
――ここは乙女ゲーム『追憶のミルフィーユ』の世界だ。
甘く漂うお菓子の匂いは、このゲーム特有の“パティシエールシステム”の演出だろう。ヒロイン・エリナは攻略対象の好物スイーツを差し入れることで好感度を上げる。
今まさにエリナの会心のミルフィーユが火を吹いたのか、アンドリュー王子の美しい唇には、薄い層の欠片が桜の花びらみたいに張り付いている。
(いや、シュールすぎるでしょう……)
よりによって、エリナとアンドリュー王子の告白イベントの真っ最中にすべてを思い出してしまうとは。
私はヒロインをいじめるためだけに存在する悪役令嬢。そして、エリナと王子の恋を加速させるための重要ポジション――
つまり、“当て馬”である。
公爵令嬢アメリア・グランシェール。
エリナの薔薇色のふんわりした髪や、リスのように可愛らしい雰囲気とは対照的な存在だ。
鏡で何度も確認した私の顔は、キリッと意志の強い碧い瞳。腰まで届くプラチナブロンドは、濃紺のベロアのリボンでハーフアップに結い上げている。
「君ならひとりで生きていける……」
何度もそう言われてきたような、どこか自立した女性の雰囲気をまとった、強い女――それが“アメリア”というキャラらしい。
当の二人は“当て馬”である私の存在などすっかり忘れ、アンドリュー王子の好物――ミルフィーユの甘い香りに包まれながら、熱い抱擁を繰り広げていた。
本来なら“当て馬令嬢”として、この二人の世界を派手にぶち壊す役目が私には与えられている。けれど、私はもう思い出してしまっているのだ。
――いくらアメリアが二人の間に割って入ろうと、彼らの恋は加速こそすれ、止まることはないということを。
ヒロイン・エリナとアンドリュー王子のイベントは、すでに佳境。
なぜならエリナの“パティシエールシステム”が、王子の心も胃袋もガッチリ鷲掴みにしてしまっているからだ。
“パティシエールシステム”――それは乙女ゲーム『追憶のミルフィーユ』の目玉にして伝家の宝刀。
攻略対象の好物スイーツを差し入れることで、心のみならず胃袋まで掴んでしまう恐ろしいシステムである。
そしてその結果、何が起きるか。
すべてを思い出した私は、つい窓から見える遠い山並みに目をそらす。
これから起こるのは、このゲームの肝である“強化イベント”――恋愛イベントの上位互換にして、プレイヤー必須の特別イベントだ。
本来のゲームでは、追加スチルまで付いてくるご褒美イベント。
しかも一周につき一度きり。
確実にエンディングへ辿り着きたいキャラにのみ使う“切り札”である。
つまり、今まさにエリナはその“パティシエールシステム”イベントを発動させてしまった、というわけだ。
(ヤバいわね。始まってしまうわ、このままじゃ)
乙女ゲームのプレイヤーが心から望む展開――
それはもちろん、攻略対象とヒロインの恋愛イベントだ。
そして今発動した“強化イベント”は、その中でもとびきりの大目玉。
このゲーム、『追憶のミルフィーユ』が一時期“攻めすぎている乙女ゲー”として話題になった原因でもある。
なんといっても恋愛シナリオが濃厚なのだ。
テキストでじっくり読ませる甘々のラブシーンに加えて、まさかの“朝チュン(事後)描写”までしっかり魅せてくるという、大人の階段を二段飛ばしで上ってくる仕様。
(つまり……このままじゃ確実にヤバい)
もう“当て馬”である私の存在など、二人の目には映っていない。
そして当て馬としての職務を放棄した今の私には、この展開を止める力も残されていなかった。
(このままじゃ“当て馬令嬢”どころか“出歯亀令嬢”になってしまうわ!)
焦りながらも、私はただその場で立ち尽くすしかない。
完全に自分の存在意義を見失った瞬間だった。
当て馬令嬢がチャチャを入れなければ、もう二人を止める障害は何もない。
濃厚な夜を迎えようとしているエリナとアンドリュー王子――その空気は、もはや画面越しのイベントCGそのもの。
その証拠に、アンドリュー王子の手がエリナの背へと伸び、ゆっくりとドレスの結び目に触れて――。
(ヤバいヤバい! おっ始まる!!)
逃げようと一歩踏み出した瞬間、私の手首をぐっと掴む強い力があった。
思わずよろめくほどの勢いで、私は誰かに引き寄せられる。
「お前は何をしてるんだ?」
低く落ち着いた声。
呆れたようにこちらを見下ろす漆黒の瞳。
そして――見覚えのある顔。
アンドリュー王子の護衛騎士――ジークだった。
この『追憶のミルフィーユ』の世界では、本来ジークは、“アンドリュー王子の護衛として名前だけ出てくるモブ騎士”
その程度の存在でしかない。
だが、私はジークを知っている。
なぜなら“当て馬令嬢アメリアの幼馴染”という、謎に豪華な設定が付与されているからだ。
そしてこの設定のおかげで、アメリアがエリナとアンドリュー王子の恋路を邪魔するたびに、ジークがすかさず現れては、
「邪魔をするな」
とアメリアを引き剥がす――そんな鉄板コントのような流れが、このゲームには存在していた。
恐らく、当て馬令嬢を都合よく退場させるための装置として作られたキャラなのだろう。
わざわざ“幼馴染”という設定までつけた意図は……製作者の趣味かもしれない。
ともあれ、今日もジークは、アメリアを二人から引き剥がすつもりで現れたはずだった。
――なのに、アメリアが動かない。
“当て馬”である私が任務を放棄して立ち尽くしていたため、ジークはさぞ戸惑っただろう。
当て馬行動をしないアメリアは、彼にとって“引き剥がす理由のない存在”である。
一方でエリナとアンドリュー王子は、着々と濃厚な抱擁を深めていく。
そしてついに――護衛騎士ジークは動いた。
アメリアを、この部屋から退散させるために。
助かった……。
心からそう思った。
ジーク、よくやったわ。褒めてあげたいくらい。
「ありがとう。助かったわ……」
私が素直に礼を言ったのが相当珍しかったのだろう。
廊下へ出た途端、ジークはまるで私が“変なものでも食べた”みたいに、じっと顔を覗き込んでくる。
護衛騎士らしい鍛えられた体つきに、背の高さ。
アンドリュー王子ほどの煌めく美貌はないけれど、モブ騎士にしておくには勿体ない整った顔立ちだ。
「……なんかお前、今日変だな? いつもはもっとぎゃあぎゃあ、うるさいくせに」
「そうかしら?」
「しかもエリナ様に噛みつきもしないで、立ち尽くすなんてお前らしくないだろ……」
言い返せない。
それだけジークは“当て馬アメリア”の暴れっぷりを見慣れているし、止め慣れているということだ。
毎回毎回、私を引き剥がす役目を背負っていたのだから、そりゃあ多少は“毒され”てもおかしくない。
「もう……やめようかと思って」
「は?」
「私、もうあの二人にちょっかいかけるの……やめようかと思って」
それは、確かに私の本心だった。
私はすべてを思い出してしまっていた。
この世界でのアメリアは、“当て馬”として役割を果たす以外の未来を持たない。
……いや、正確には“当て馬”を終えたあとは、ヒロインと王子の物語に一切関わらなくなる。
いわば、お役御免の存在だ。
エンディングを迎える二人の物語に、アメリアの名は影も形も出てこない。
それなら——
もういいんじゃないだろうか。
“当て馬令嬢”が普通の令嬢に戻っても。
この物語の脇から、そっと離れても。
そう思ってしまったのだ。
辺りには、まだ“パティシエールシステム”の残り香が漂っている。
甘くて香ばしいミルフィーユの匂い。
(そうだった……私、お菓子作りが趣味だったんだっけ。だからこの『追憶のミルフィーユ』の世界に興味を持ったんだ……)
アメリアになる前の私は、平日仕事で疲れた心を土日の「お菓子作り」で癒していた。
ただの小麦粉や卵や砂糖が、自分の手で美味しいスイーツに変わっていく——
その過程が魔法みたいで、大好きだった。
「私……、“当て馬”、やめるわ」
思わず、自分自身への宣言のように呟く。
「せっかくだし、パティシエにでもなってみようかしら?」
我ながら、名案だと思った。
アメリアの“当て馬人生”をここで終わらせて、
新しい人生を歩き直すのも悪くない。
そう決めた私を、ジークはまだ状況が飲み込めないという顔で、じっと見つめていた。
公爵令嬢であり、悪役令嬢として名を馳せていたはずの私の“まさかの転身”は、瞬く間に学園中の噂になった。
ここエーデルハイム学園は、『追憶のミルフィーユ』の舞台。
貴族子女はもちろん、魔力が一定以上なら平民さえ受け入れる、王国随一の名門校だ。
アンドリュー王子のように王家の血を引く者。
エリナのように平民でありながら聖女級の魔力量を持つ者。
そして——ただ家柄が良いだけの私、アメリア・グランシェールのような貴族令嬢。
この国の将来を担う有望な若者たちが集うこの学園で、
私のような“取り柄のない名家の娘”が最も現実的に選ぶべき進路はひとつ。
——結婚相手探し。
将来の伴侶となりうる貴族青年を在学中に見つけるのが最も効率的で、かつ家の格に見合う相手を確保する“一番の得策”とされていた。
堂々と校内で行われる、いわば公認の『青田刈り』である。
“当て馬令嬢”としての私は、アンドリュー王子の婚約者となるべく、日々この舞台で努力していた。
……努力と言う名の、エリナと王子の“お邪魔虫”として、だ。
だが、それもまた私の生き方だった。
「そんな世界で、“当て馬をやめてパティシエ見習いに転身した”なんて……そりゃ噂になるわよね」
今までひたすらエリナと王子を追いかけ回していたアメリアが——
放課後の家庭科室で、真剣な表情でボウルをかき混ぜている。
そんな姿、誰が想像しただろう。
「……お前、本気なのか? 今まで菓子作りに興味なんてなかっただろう」
アンドリュー王子の護衛騎士であるジークが、家庭科室の隅で剣の手入れをしながら、手持ち無沙汰に私を見つめている。
本来なら王子のそばに控えているはずの彼だが——
最近のアンドリュー王子は、エリナとの“甘い時間”を邪魔されたくないという理由だけで、よくジークを部屋から追い出していた。
その結果として、任務から外されたジークはこうして家庭科室へ流れ着き——
そして、当て馬をやめて突然“菓子作り見習い”に没頭し始めた私の姿を見るたびに、ますます困惑を深めているのだった。
「お前、本気なのか?」
「何が?」
「その……パティシエになるとかなんとか。お前、不器用だし、ちまちま計量とかやってられないだろ?」
ジークの言葉に、今度は私が困惑する番だった。
本来のアメリアって、そんな設定まであったの……?
——だが、それは“元のアメリア”の話。
私はあいにく、割と器用な方だし、性格もどちらかと言えば几帳面だ。
小麦粉を「だいたいこのくらい」で入れるなんて絶対にしない。
お菓子作りは計量が命。それくらい分かっている。
「もちろん。本気よ! あ、そうだジーク。昨日のマドレーヌ、食べてくれた?」
手を動かしながら何気なく尋ねると、
ジークはわずかに視線をそらし、渋々という風にこくりと頷いた。
その態度だけで分かった。
——ジークは、多分甘いものが苦手だ。
それでも何故か、私のお菓子だけは食べてくれる。
「無理して食べなくてもいいのに。家族にでも友達にでもあげなさいよ」と言っても、結局彼は口に運んでしまう。
(変な人……でも、作ったものを食べてくれる人が近くにいるって、ありがたいわね)
「……ちょっと甘いけど、まあ、悪くなかった」
ぶっきらぼうなのに、どこか照れたような褒め方に、胸の奥が少しくすぐったくなる。
「お菓子って甘いものよ」
「知ってる……」
穏やかな時間が流れた。
シャカシャカとボウルをかき混ぜる音だけが、静かな家庭科室に響く。
もう、ジークに『邪魔するな』と引き剥がされることもない。
今日はシフォンケーキを作る予定だ。
私の泡だて器が刻むリズムだけが、学園の放課後にやさしく溶けていった。
「なぁ、アメリア。もう王子のことはいいのか?」
沈黙を破るように落とされたジークの声に、
私は泡立て器の動きを止めた。
「もう、当て馬はやめたって言ったでしょ?」
「当て馬って……。お前、王子のこと好きだったんだろ?」
改めてそう言われると、何と答えていいか分からない。
このゲーム世界で“アメリア”は最初から当て馬として配置されていて、
恋心の理由なんて描かれていない。
私自身にも、アメリアが王子を好きだった根拠なんて分からない。
「好き……だったのかなぁ」
曖昧に答えると、ジークはほんの一瞬だけ表情を曇らせた。
「……そうか」
低く呟き、少し間を置いてから、
本当に誰にも聞かれたくないような声で続ける。
「お前が王子、王子って言い続けてくれてたら……安心できたのにな」
「え?」
思わず顔を上げると、ジークはすぐに目を逸らした。
無骨な指先が、剣を握る時よりも強く、ぎゅっと拳を握りしめている。
「なに、それ?どういう意味?」
「……こっちの話だよ」
ぶっきらぼうに言い放ちながら、
耳の先だけわずかに赤く染まっていた。
どうしてそんな顔をするのか、私には分からない。
「そろそろ時間か……」
ジークがちらりと家庭科室の時計を見る。
彼がここに来てから、すでに一時間が経とうとしていた。
アンドリュー王子に『出ていけ』と追い出されてからの、約束の一時間。
恋人同士にとってはきっと一瞬でも、
護衛騎士にとっては長い“待機時間”だ。
「はぁ……あの部屋戻るの、だるいな」
珍しくはっきりと漏らされた本音に、私は思わず同情した。
だって、あのピンク色のほわほわした空気の中に
“職務で立ち尽くす護衛騎士”なんて……どう考えても場違いだ。
その想像が浮かんでしまい、
つい口元が緩んだ。
「笑うなよ……」
「だって想像しちゃったのよ。王子の後ろで棒立ちしてるジークを」
「お前よくあの二人の間に割り込めたよな。相当メンタル強いだろ……」
“当て馬”精神を褒められているのか皮肉られているのか分からなくて、私は苦笑いをした。
アメリアなら耐えられても、中身の私は無理だったのよ……と心の中でだけ反論しておく。
だから“当て馬”やめたんだし。
王子のところへ戻るジークを見送ってから、オーブンの前に戻り、シフォンケーキの様子を確認する。
思ったより――膨らんでいない。
(……残念。ちょっと失敗ね)
それでも、この瞬間がお菓子作りの醍醐味だと思う。
うまくいこうがいくまいが、一から自分の手で焼き上げたという達成感で胸がいっぱいになる。本当なら、大成功に越したことはないのだけれど。
ここ最近、お菓子を作るたびにジークの訪問が増えているのは気のせいだろうか。
甘いものが苦手なら、わざわざ家庭科室なんて覗かなくてもいいのに。
そう思いながらも、実際のところ話し相手にもなるし、試食も文句ひとつ言わずに食べてくれるのは助かっている。
ただの幼馴染にしては、距離が近いような気もするけれど。
(まあ、いいか。きっと王子とエリナのイチャイチャタイムのせいで追い出されてるだけよね)
ぺしゃんと潰れたシフォンケーキを、そっとケーキ箱に詰めながら、明日は何を作ろうかと考える。
そんな他愛もない悩みが、今の私には何より幸せだった。
ケーキ箱を手に、ワクワクしながら廊下へ出る。
幸せな考え事をしながら歩く廊下は、つい足元よりも頭の中のレシピ表でいっぱいになる。
ドンッ――。
誰かにぶつかったのか、大きな音がして、私は思わずケーキ箱を取り落としてしまった。
「ごめんなさい! ちょっと考え事をしていて……っ」
慌てて顔を上げると、そこにいたのは――
ピンク色のふんわりした髪、小動物のように愛らしい雰囲気、そして少しだけ頬を染めたヒロイン、エリナの姿だった。
どうやら私は、よりによってエリナにぶつかってしまったらしい。
以前のアメリアなら、ここで軽く因縁のひとつも付けていたのだろう。だが、今の私はもう違う。
“当て馬”もやめた今、この愛らしいヒロインに噛みつくつもりなんて毛頭なかった。
「本当にごめんなさい! 急ぐから……」
そう言って踵を返そうとした瞬間、
小さくて白い手が、私の手首をそっと引き止めた。
廊下に落ちたケーキ箱を拾い上げ、埃が付いていないか確かめるように眺めてから、エリナはそれを大事そうに私へ差し出す。
「お待ちください、アメリア様……」
ふんわり甘いのに、どこか凛とした声。
ヒロインとしての儚さと強さを併せ持つ、その魅力的な声音だと思った。
箱の透明な窓から、やや潰れたシフォンケーキが覗いているのに気づき、少しだけ胸がちくりとした。
失敗作を見られてしまった恥ずかしさと情けなさ。
相手が、かつて婚約者を競い合ったライバルであったことを思えばなおさらだ。
「スイーツを作られているというのは、本当だったのですね、アメリア様……」
優しい声が私を包む。
失敗を笑うでも、見下すでもない。
まるで“同志”の存在を喜ぶかのような、明るい調子だった。
それもそうだ。
“パティシエールシステム”なんてものは、もともとエリナのためにあるシステムだ。そのエリナがお菓子作りができないはずがない。
「私も、お菓子作りが大好きなんです。……一緒ですね」
「え? ……ええ。そう、ね」
「最近のアメリア様のご様子が、少し変わられて。とても甘い匂いがして……それに、お顔も前よりずっと優しくなられて……」
花が綻ぶように、甘やかな瞳を細めてうれしそうに語るエリナの声は、聞いているこちらまで温かくなるようだった。
「…………あ、ありがと」
不意を突かれて、思わず素直なお礼が口からこぼれる。
「アメリア様に、スイーツの加護がありますように」
そう言ってエリナは、私の手を両手で包み込む。
そして、そのまま大事な宝物を扱うように胸元へと引き寄せ、祈るように額を近づけた。
まるで――
聖女が祝福の祈祷を施すかのような光景だった。
私は驚きながらも、されるがままにそれを受け入れる。
ふわり、と。
シフォンケーキの香りとも、エリナがまとっている柔らかな香りともつかない甘い匂いが、その場に漂った気がした。
気のせいと片付けるには、あまりにも優しく、心地よい香り。
「おまじないです。
アメリア様が、もっともっと素敵なお菓子を作れますように」
にこりと微笑むエリナの笑顔は、さすがヒロインとしか言いようがない。
誰もが心を奪われる、甘くてまっすぐな笑顔だった。
その瞬間、私の中で何かが、静かにカチリと噛み合う音がした気がした。
その日は、エーデルハイム学園が一年でいちばん色めき立つ朝だった。
――聖月祭。
後夜祭で“月下の口づけ”を交わせば、恋人たちは末永く結ばれる。
そんなロマンチックな言い伝えが、朝から学園中の空気を温かく浮き立たせていた。
女子寮の廊下は、早朝だというのに舞踏会前夜のような熱気に包まれている。
「このドレス、変じゃない? 胸元開きすぎ?!」
「大丈夫よ、今日は勝負の日なんだから!」
鏡の前では三人一組で髪を巻き、リボンを結び、化粧道具を広げている。
香水の甘い香り、ドレスのきらめき、胸元に灯る小さなときめき――
そのすべてが今日の夜へ向けた高揚を物語っていた。
“月下のキス”。
その言葉ひとつで、女生徒たちの準備に力が入らないわけがない。
男子寮はというと、女子とは別の意味で騒がしい。
「誘ったって本当かよ?!」
「いや、まだ……断られたらどうしよう……」
「うるさい! 行ってこい!」
髪の跳ねを慌てて押さえる者、友人に服装チェックを頼み込む者、
ポケットの“告白メモ”を折り直しては深呼吸する者までいる。
普段は鈍感で落ち着いた男子生徒まで、今日ばかりはざわついていた。
校舎へ向かえば、中庭にも甘い空気が広がっている。
食堂には特別メニューが並び、掲示板には
《後夜祭まであと3時間》
の張り紙が大きく掲げられていた。
――学園は完全に“聖月祭モード”。
胸を弾ませ、誰もが今日の夜を待ち望んでいた。
(みんな……随分気合い入ってるわね)
そんな喧騒を横目に、私は人混みを避けるように歩き、
ただ一箇所、いつもの場所へ向かっていた。
家庭科室――。
この日ばかりは誰も校舎で何かしようなんて思わないのか、
扉を開けると、そこはひっそりと静まり返っていた。
(よし。集中できそう)
今日何を作るかは、もう決めている。
――チョコブラウニー。
しかも、甘さ控えめのほろ苦いバージョン。
聖月祭という、特別すぎる日。
けれど同時に“彼”の誕生日でもある。
(こんな日に生まれたなんて……ジークって本当に不運よね)
ほんの少しだけ同情しながら、
それでも彼が好きだと言っていた“ほろ苦いチョコ”なら喜ぶかもしれないと、
私はチョコレートを刻み始めた。
甘いものが苦手なジークでも、
チョコレートの微かな苦味は好きらしい。
なら、うんとほろ苦くして――
彼のためのブラウニーを焼いてみよう。
そう思うと、胸の奥がほんのり温かくなる。
(よし、最高のほろ苦さにしてやるんだから)
私は意気揚々とボウルを手に取り、チョコブラウニー作りを始めた。
焼き上がったチョコブラウニーを、ほんの少しだけつまんで口に含む。
甘い物好きの私にはちょっと物足りない甘さ。
むしろほんのり感じる苦味の方が強いのは、私が根っからの甘党だからかもしれない。
それでも――満足。
軽くラッピングを施し、全部の工程が終わった頃には、外はもう聖月祭のフィナーレ間近だった。
家庭科室の窓から見えるのは、着飾った女生徒たちの色とりどりのドレス。
少し緊張した面持ちの男子生徒。
笑い声、音楽、煌びやかな灯り。
(さて……私もそろそろ帰ろうかな。)
なにせ、ただの制服姿。
髪もケーキ作りのために後ろでひとつ結び、化粧だってリップを塗っただけ。
場違いにも程がある格好だし、そもそも恋愛とか、今はまったく興味がない。
――まずはお菓子作りを極めたい。
それが今の私のいちばんの優先事項。
家庭科室の片付けを終え、部屋を出ようとしたそのときだった。
「やっぱり、ここにいたんだな。アメリア」
聞き慣れた低い声。
振り向くと、いつも通り鎧を身に着けた護衛騎士・ジークが立っていた。
「今日は聖月祭よ! アンドリュー王子の護衛はいいの?」
大きなイベントの時は王族が前に立つのが普通だ。
だからジークがここにいるのは、どう考えても変だ。
少し非難を込めて問いかけると、ジークは当然のように答えた。
「王子はエリナ様としっぽり楽しみたいんだと。
挨拶終えたらすぐ自室に籠もった。」
「あ……」
ですよね〜、と心の中で深く納得してしまう。
「で、何時に戻らないといけないの?」
「今日は朝まで戻ってくるな、って言われてる。」
その言葉に、まあまあお盛んなことで、と私はつい頷いた。
ジークはどこか解放されたように口元をゆるめる。
「だから、もう俺はフリー。」
その一言が妙に嬉しそうで、
胸の奥がふっとくすぐったくなった。
「なぁ、ちょっと外に出ようぜ。月見スポット知ってる。――うるさくない所」
ジークのその一言だけで、胸が少しだけ揺れた。
(べ、別に聖月祭とか、月下のキスとか……そういうイベントに興味があるわけじゃないけど。
うるさくない場所、って言われれば……まあ、行ってもいいかな。)
「まぁ、別にいいけど」
そう頷くと、ジークは「ついてこい」と言わんばかりにスタスタと歩き出す。
私は家庭科室の電気を消し、ブラウニーの入った箱を抱えて後を追った。
そして連れてこられた場所――。
木々の隙間から、真上にぽっかりと月が浮かぶ絶好の月見スポットだった。
ちょっとだけ辛いのは、あまりにも真上すぎて首がしんどいところ。
でも、森に近いせいで学園の喧騒はほとんど聞こえない。
まるで二人きりの世界に月だけが浮かんでいるような、静かで幻想的な場所だった。
(ドレスだったら、こんなことできなかったな)
制服だからこそ気楽に、私はそのまま原っぱにごろんと寝そべった。
ジークは一瞬だけ驚いたように私を見ると、肩をすくめ――上半身の鎧を器用に外し始めた。
「騎士のくせに鎧脱いじゃうの?」
「構わねぇよ。主が“恋人としっぽりしたいから朝までもどるな”って人なんだから」
「なにそれ! もう!」
クスクスと笑いがこぼれる。
二人で並んで寝転がり、真上の月を見上げると、不思議と胸の奥が温かくなった。
静かで、ほどよく涼しい夜。
遠くの祭りの音だけが微かに聞こえ、ここだけ別世界みたいだった。
「なぁ、それ……俺のだろ?」
寝転んだまま、ジークがひょいと手を伸ばしてくる。
まるで当然のように“渡せ”と言われている気がして、私は思わずむっとしながらも、焼いたばかりのチョコブラウニーをその手のひらに乗せた。
(なんで“ジークのだ”って分かったのよ……?
ただの焼き菓子よ?ラッピングだって簡単なやつなのに!)
私が動揺しているのが顔に出ていたのか、
ジークは包みを開けながら、ごく淡々と言った。
「……自信作だから早く食べてほしいって顔してた。お前」
「なっ……し、してない!!」
反射的に否定したけれど、
ジークはいつものようにうっすら笑って――でもどこか優しく、視線を逸らさずにいた。
ジークがブラウニーをつまみ上げ、ためらいもなく口へ放り込む。
もぐ、もぐ、と噛みしめながら、いつもよりほんの少しだけ真面目な表情で呟いた。
「……甘くないな」
その言葉に、思わず瞬きをした。
ジークはどんな菓子を食べさせても必ず眉をひそめて「甘い」と言ってきたのに――
初めて聞く評価だった。
(……甘くない? つまり……ジークの好みに合ってるってこと?)
じわっと頬がゆるんでくる。
嬉しいなんて、そんな単純な言葉じゃ足りないくらい。
さらにジークは、一切れ飲み込んだあと、ぽつりと言った。
「今までの中で一番うまい」
その一言が落ちてきた瞬間、胸の奥が――
まるで唐突な“愛の告白”を受けたみたいに、どくん、と強く跳ねた。
(え……なにそれ。そんな言い方……反則でしょ……)
味の感想でしかないと頭では分かっているのに、
それでも、心は勝手に熱を帯びていくのだった。
そのときだった。
ふわり、と。
さっきまでただの夜風だった空気が、急に甘く、濃く、温かく膨らんだ。
「……え?」
鼻先をくすぐるのは、焼きたてのチョコブラウニーよりも甘い、妙に幸福感のある香り。
まるで街中のショコラ専門店を一気に何十軒もハシゴしたみたいな、濃密で、とろけるような――
嫌な予感がした。
(……これ……知ってる……!!)
どくり、と喉が鳴る。
エリナが王子へミルフィーユを渡したあの日、世界が“恋愛イベント仕様”へ塗り替わったあの甘ったるい気配。
そして、今。
ジークのまわりの空気が、ゆっくり、確実に甘く滲み始めていた。
あの時――エリナと王子は周囲が見えなくなるほど、
まるで世界に二人しかいないかのように、とろりと熱を孕んだ瞳で抱き合っていた。
甘い香りが空気を満たすと同時に、世界が“恋愛イベント仕様”へ強制的に変わった、あの瞬間。
そして今。
ふわり、と濃厚なチョコレートの香りが夜気を染め上げたその中で――
ジークが寝転んだままの私へ、ゆっくりと影を落とすように覆いかぶさってきた。
「……アメリア」
低く名前を呼ばれ、心臓が嫌でも跳ねる。
ジークの瞳が、月明かりを受けて妙に艶めいて見えた。
(ちょ、ちょっと待って!?)
思わず私は体を引こうとするが、寝転んでいるせいで逃げ場がない。
ジークはまっすぐに私の瞳を覗き込んでくる。
その距離、ほぼゼロ。
(ま、待って!
確かにパティシエールシステムは恋愛強化イベントで、『追憶のミルフィーユ』の売りだって知ってるけど……
アレ、エリナ専用だよね!?)
本気で叫びたくなる。
(な、なんで元当て馬令嬢の私に適用されてるのよ!?
どういうバグ!? どのルート!? え、私ヒロインになった覚えないんだけど!?)
香りはさらに甘く濃くなり、ジークの呼吸が少し荒くなる。
彼の手が、そっと私の頬に触れた。
やばい。
本気でイベントが暴走してる。
チョコレートの濃厚な甘い香りが満ちていくにつれ、
ジークの瞳はますます熱を帯びていった。
「……アメリア」
私の名を呼ぶ声は、いつもの素っ気なさとは違い、
どこか焦がれるような響きを持っていた。
そのまま、彼の額が私の額に触れるほど距離が縮まる。
「アメリア……お前のことが、ずっと……」
(ちょ、ちょちょちょちょっと!?)
ついに来た。
イベントの“告白強制ルート”みたいなセリフが来た。
彼の両手が私の顔を挟む。
月の光が揺らぎ、甘い香気が輪を描くように周囲に漂って――
完全に“恋愛演出モード”だ。
「や、やめ――っ! ま、待ってってば!!」
慌てて両手でジークの胸を押す。
ほんの少し押しただけなのに、システムの光がふっと揺らいだ。
――ぱちん。
まるで何かのスイッチが切れたみたいに、
チョコレートの甘い香りが急激に薄れていく。
同時に、ジークの身体もぴたりと止まった。
「……っ!」
ジークの瞳が揺れ、眉がわずかに動いた。
彼は私のすぐ上で息を乱しながら、ゆっくりと瞬きをする。
「……俺、今……なにを……」
明らかに“正気”に戻った顔だ。
さっきまでの熱っぽい目が、普通のジークの眼差しに戻っている。
(よ……よかった……戻った……!
ていうか怖い怖い怖い!! 本気でイベントに飲まれるところだった!!)
胸に手を当てながら、私は全力で安堵の息をついた。
ジークはまだ体勢を整えられずにいるようで、
私の上に手をついたまま、息を整えながら呟いた。
「……悪い。なんか……妙に……頭がぼうっとして……」
あれだけ迫っておいて、今は完全に混乱している。
(そりゃそうよ! こっちもびっくりよ!!)
しばらく沈黙が流れた。
風が通り抜け、甘い香気が完全に消えていく。
「正気に戻ったならよかった! ねぇ今すぐどいてもらっていい? 重いよ!」
グイッと自分の身体から引き離すようにジークを押す。
しかし寝転んだ私の上に覆い被さった彼は微動だにしない。
傍から見れば恋人同士のいちゃつきか、もしくは強姦魔か――どっちにしてもシャレにならない体勢である。
とりあえず落ち着きたい。
でも騎士であるジークをどうこうする身体能力は私にはない。
自力では無理なので、もう本人にどいてもらうしかないわけだが……。
ジークは少しだけ何か考えるように黙ってから、
私の予想を軽く跳び越えていく言葉を、なんの遠慮もなく口にした。
「嫌だ。このままでいい。」
「は?」
いや、このままで良くないから“どいて”って言ったんですが?
睨みつけると、ジークはそんなもの怖くないと言わんばかりに
私を地面に縫い付けたまま、真っ直ぐに顔を見つめてくる。
月明かりに照らされた黒髪が艶めいて揺れた。
夜の黒と、ジークの黒髪は同じ“黒”なのにまるで違う。
少し長めの髪先が私の頬にサラリと落ち、くすぐったさに反射的に顔を背ける。
……なんなの、この空気感。
さっきまでの、強制的に甘い匂いを漂わせる“イベント”の気配じゃない。
しっとりとした月夜の静寂。
目の前のジークは、まるで別人みたいに――静かだ。
「アメリア……好きだ。ずっとお前のことが好きだった……」
聞きたくなかった禁句が、あまりにも簡単に零れ落ちた。
ずっと……
好きだった……。
その言葉は、今の私にとっては致命的だ。
だって私は、ずっと前からここにいた“アメリア”じゃない。
ジークが長い時間をかけて好きになった“アメリア”とは別人なのだ。
これ以上、黙っているのは無理だった。
薄々ジークは気づいている。
ただ、言わないだけで。
私が“本当のアメリア”ではないことを。
この身体の内側にいるのは、全くの別人であることを。
月が静かに照らす下、私は息を吸う。
言わなくちゃいけない。
――ここから先は、逃げられない。
「私はジークが好きな“アメリア”じゃないの。」
何を言っているんだと言われても当然の言葉を、私ははっきり口にした。
アメリアの姿をした私がアメリアではないなんて、どう考えてもおかしい。
その自覚はある。けれど。
ジークは、ただ一言だけ答えた。
「わかってる。」
「……え?」
「お前がアメリアじゃないって、なんとなくずっと思ってた。
あまりにも俺の知ってるアメリアと違いすぎたから……でも――」
一言、一言、丁寧に落とすように重ねられるジークの声。
その先を知りたくて、私は思わず彼の唇の動きを追ってしまう。
「でも……根っこは変わらない。
好きなものに一生懸命で、前に進む姿は、お前も“アメリア”も一緒だ。」
胸の奥が、じんわりと熱くなる。
こんな風に見てくれていたなんて、思わなかった。
――当て馬令嬢アメリアは、アンドリュー王子が好きで好きでたまらなかった。
――私は、お菓子作りが好きで好きでたまらない。
方向は違っても、熱の向け方はきっと似ていたのだ。
「何なら今のお前の方が、王子に熱を上げてない分だけ俺にとってはいいかもな。」
ジークは冗談めかして笑い、そっと私の頭を撫でた。
その仕草があまりに優しくて、胸の奥がきゅっと縮む。
「私はアメリアじゃないんだよ?」
「そうか。じゃあ――お前は、なんて名前なんだ?」
この世界で初めて“本当の名前”を尋ねられた。
驚いたのに、胸の奥がぎゅうっと痛くなる。
懐かしさと寂しさと安堵が、全部まとめて押し寄せてきた。
震えそうになる唇で、私は自分の名前を思い出す。
「……ななみ。」
その音を口にした瞬間、涙があふれた。
忘れたくなかったのに、忘れかけていた。
――そうだ、私は七海だった。
「ナナミ……へぇ。不思議な響きだな。」
ジークは新しい名前を確かめるように、ゆっくりと繰り返した。
「ナナミ、と呼んだほうがいいのか?」
そう尋ねられて、私はゆっくり首を振った。
――違う。
この世界で生きる私が選んだ名前は、もう別だ。
本来のアメリアは消えてしまった。
でも、今この身体で息をしているのは私。
だからこそ、その名を引き継ぐのは“私”しかいない。
「大丈夫。アメリアと呼んで。
私はナナミだったけど……今はもう、アメリアだから。」
自分で口にして、初めて気づく。
これは他人に言うための言葉じゃない。
“自分自身に向けた決意表明”だった。
「……わかった。アメリア。」
ジークはその名前を噛みしめるように、静かに呼んだ。
その声音には迷いがなかった。
まるで“ナナミ”だった過去ごと、丸ごと受け入れるように。
胸の奥が、じんと温かくなる。
――ここで生きていく。
“アメリア”として、私の物語を歩く。
その誓いが、月明かりの中でそっと形になった。
「アメリア……好きだ。」
まるでもう一度、確かめるように。
ジークはゆっくり、その言葉を私に落とした。
胸の奥が小さく震える。
もう、私はそれを拒否できない。
――でもさ
それでも。
月の光の下、そっと私の唇に触れるだけのキスを落としてきた彼を、
私は目を閉じて、静かに受け入れた。
触れただけの、優しいキス。
けれど胸の奥に、ゆっくりと温かいものが波紋のように広がっていく。
――きっとここから、何かが始まる。
そんな予感だけは、はっきりと感じていた。
甘い匂いをふんわり漂わせながら、うまくできたとピンク色の髪を揺らし、エリナがにっこり微笑んだ。
家庭科室の中は香ばしいアップルパイの匂いでいっぱいだ。
甘酸っぱいりんごのグラッセと、サクサクに焼き上がったパイ生地――覗きこめば、やっぱりエリナは“重ね”が上手いと思う。
「完成ですわね。とても美味しそう! アメリア様とわたくしの合作ですわ。」
お菓子作りという共通点を持った私たちは、きっと前よりずっと仲良くなっている。
「エリナ。やっぱりあなたは私より上手だわ。」
「そんなことありませんわ。アメリア様には《スイーツの加護》がありますもの。あっという間にもっと美味しいお菓子を作れますわ。」
「スイーツの加護? 何それ。神様みたいなもの?」
いまいちピンと来ない“加護”の話に首をひねると、エリナはくすくすと笑った。
「《パティシエールシステム》――アメリア様も経験なさったはずですわ。」
はっと、息が止まる。
聖月祭の夜。
チョコレートの甘い香りの中で、幼馴染のジークに押し倒されて。
告白されて。
本当の名前を告げて――キスを交わした、あの夜。
一気に思い出して、私は真っ赤になった顔を両手で覆った。
「ふふ。《おまじない》って言ったでしょう? どうでした? 好きな人と仲を深めるおまじない。……効果、ありました?」
どうやら“パティシエールシステム”は、エリナにとってはおまじないの一種らしい。
聖女級の魔力を持つ彼女が、あのとき私をそっと後押ししてくれていた……ということだろう。
「余計なことをしないでちょうだい! 私に内緒で!」
「余計なことではありませんわ。アンドリュー王子もジーク様の――」
エリナの言葉を遮るように、家庭科室のドアがガラガラと開いた。
「エリナ、それにアメリア。君たち、いつの間にそんな仲良くなったんだ?」
アンドリュー王子がエリナを迎えに来たらしく、
私とエリナがお菓子作りをしている光景に驚いたようだった。
「アメリア様とは最近仲良くさせて頂いておりますの。……あ、ほら、王子、お部屋に戻りませんこと?」
エリナはささっとアップルパイを二人分包みに包み、帰る準備を始める。
そして、パチッと小さなウィンクを私へ。
(え……?)
と視線を向けた瞬間――
アンドリュー王子の後ろ、気だるげに控えている護衛騎士の姿が目に飛び込んできた。
ジーク。
ウィンクの意味を理解した瞬間、頬に一気に血が上がる。
「ジーク、私とエリナは部屋に戻る。……そうだな。1時間後に戻ってこい。それまで適当に時間を潰せ。」
そう命じると、アンドリュー王子はエリナを伴って部屋を出ていった。
残されたのは――私とジークの、二人だけ。
月の夜の続きを思い出しそうで、喉がひゅっと鳴った。
「緊張しすぎ。」
そう言って笑うジークに私はますます身体を強張らせる。まさかエリナと王子がそんな私とジークのお膳立てみたいなことをするとは思ってもみなくて。
しかも、あの時の“パティシエールシステム”の暴発はエリナの仕業だと聞いて私は既にいっぱいいっぱいだった。あんな強制恋愛イベントのせいでジークと変な雰囲気になったのを恨んでも恨みきれない。
「緊張なんてしてない!」
「そうか?お前すごい量の小麦粉ぶっ込んでるけど?」
アップルパイは焼き上がったはずなのに、空のボウルに溢れんばかりの小麦粉を入れて、意味もなく泡だて器でかき混ぜている私の手元を見てジークがくすくす笑っている。辺りは小麦粉の粉で真っ白だ。
「アメリア……そう言えばあれって“月下のキス”ってやつだったんだな」
昨夜の月夜の下で交わしたキスを思い出させるようにジークが私の髪に触れる。
「きょ、興味無い!」
「そんなに顔真っ赤にしてるくせに?」
「…………」
「なぁ、王子とエリナ様なんか知ってた感じだったよな。お前なんかした?」
「し、してない。」
何かをやったのは“パティシエールシステム”をこっそりとおまじないにして私に託したエリナの方だ。
でもきっとそんな事をジークに言ってもわからない。これはお菓子作りを趣味とするエリナと私の秘密だ。
「まあさ、今後王子がエリナ様と自室に籠もる時は俺とお前も同じようなことやっていいってことだよな?適当に時間潰せって王子から言われた訳だし。」
「な、何よ。適当って……」
「こういうことだろ?」
後ろから抱き込まれて、顔を向けさせられる。
昨日初めて触れたばかりの唇にまたジークの唇が触れて、私の唇を味見するかのようにキスのあと舌でぺろりと舐めた。
「甘えな……」
「あ、アップルパイの味よ。甘いに決まってるでしょ!」
「あ?アメリアの味だろ?お前いつも甘ったるい匂いしてる……」
甘いのが苦手なジークが、少しだけ顔を顰めると私はムッとした。
「甘いのが嫌ってことかしら?」
「いいや、甘くても我慢するから早くもっとよこせってことだな。」
ぎゅうっと抱きしめられた身体を強く引き寄せられ、次はキスに舌が絡むような甘い口づけ。
「んっ……ぁ」
漏れ出る吐息まで食べ尽くされるようにジークは私の唇を離さない。
本当に食べられちゃいそう……
甘いの苦手なくせに、遠慮なく深く……甘く。
「やっぱ。甘え。でも止まらねぇ……」
ジークの声に、私は何度も何度も彼の唇に食べられていく。
「菓子は好きじゃないが……菓子職人はどんだけでも食えるな……」
「っ……!」
恥ずかしさが限界に達して、私は彼の革靴を思い切り踏みつけた。
「痛っ!……思い出すな、お前の“当て馬”時代。」
その言葉に、胸の奥でじんわりと何かが広がる。
アメリアの怒りっぽさも、
ジークに噛みついていた強さも、
アンドリュー王子を追いかけ続けた一途さも。
全部、確かに私の中に残っている。
――アメリアの記憶は消えたんじゃない。
――私の中で、今も息をしている。
『何するのよ!ジーク、離しなさいよ!』
『お前が王子とエリナ様の邪魔するからだろ。……まったく、昔から手のかかるやつだ』
蘇る光景は、まるで誰かの人生なのに、
どこか懐かしくて胸が痛む。
私――ナナミ。
でも今はもう、アメリアでもある。
アメリアの未練も、
アメリアの恋も、
全部引き受けてこの世界を生きると決めたのだ。
甘いりんごとバターの匂いが残る家庭科室で、
ジークの横顔を見つめながら、私は静かに息を吸い込んだ。
そして心の中で、そっと呟いた。
――“当て馬”令嬢は幼馴染と恋をするかもしれない、と。
読んで頂きありがとうございました。
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乙女ゲームにありそうなシステムを勝手に考えた結果“パティシエールシステム”という便利な機能になりました。R18ならもっと進めますが自重しました!
こちらムーンライトノベルズでムーン版としてR18で別作品となって投稿しています。




