第8話 扉の縁
歓声が遠のくにつれ、耳の奥に、かすかなきしみが戻ってきた。
石畳に走った亀裂――そこから、黒い靄が、呼吸するみたいにゆっくりと漏れている。
「みんな、離れて!」
俺が叫ぶと、村人たちは子どもを抱え、丘の縁まで下がった。
エリナだけが残り、聖剣を半身に構える。剣身には、昨夜の光の実の薄膜がまだ宿っている。
亀裂の底で、何かが揺れた。
水面に落ちた石が作る波紋みたいに、石の隙間が丸く、丸く、均された輪になる。
黒い輪。
見ていると目が痛む。輪郭がずれて、世界の方が間違っているように感じる。
「……“扉”だ」
エリナが低く漏らす。「あの影が言ってた。決闘は扉だって」
黒が膨らみ、薄い膜を張る。膜の向こう、霧のようにぼやけた景色の中に、長い影がひとつ、ゆっくりと立ち上がった。
黒騎士――ではない。
それは鎧の形すら定まらず、見ている側の恐れを型にして、毎瞬、外形を変えていく。
声がした。音ではない、耳の内側に直接触れる囁き。
――《輪の継承者。均しの子。手を取れ》
「取らない」
――《均せ。世界の傷は深い。均せば滑らかになる。痛みは消える》
「その“消える”の中に、この村は入ってるのか?」
沈黙。いや、笑ったのかもしれない。黒が微かに震えた。
――《痛みは等しく均される。等しさこそ救い》
「等しく“奪う”ことを、救いとは呼ばない」
黒の輪がひときわ濃くなる。縁から滴り落ちた靄が、草を触れただけで色を抜いた。
葉は乾いた紙みたいにひしゃげ、指で触れたら灰になりそうだ。
「下がって」
エリナが一歩出る。
黒の表面に、彼女の映り込みが現れては消えた。鏡に手をかざすみたいに、向こう側にも“似た姿”が伸び、こちらに触れようとする。
俺は若木の根元へ駆け寄った。銀の葉が、黒の気配に耐えるように震えている。
根が――音もなく、輪の方角に“引かれて”いた。土の粒がゆっくりと移動する。
村が、この丘が、輪の均しに巻き込まれていく。
「……そうか」
俺は帯に織り込んだ井戸の記憶を、片端から指で撫でた。
重さ、軽さ、水の行き来。滑車の軋み。
“行って戻る”道を、掌の上で思い浮かべる。
――《手を取れ。均しの子。輪の内へ》
「内と外があるなら、道もある。行って、戻る。戻らせる」
俺は帯を輪の縁に向けて投げた。
布は空で一度、ふわりと浮き、次の瞬間、数個の見えない杭にかかったみたいに止まる。
指先から温度が抜けた。
ひどい寒気――いや、“無”の風。何も持たない風が、俺の掌を舐める。
「無茶だ、リオン!」
エリナの声が飛ぶ。
「綱は“重さの記憶”で動く。相手は重さを消す“無”。相殺されたら、あなたの――」
「大丈夫じゃない」
正直に言うと、彼女は目を丸くした。
「だから急ぐ」
帯に、もうひとつ別の記憶を結び込む。
畑の畝割り。
雨のあと、土が流れないように作った小さな堰。
多すぎる水は一度受けて、迂回させて、元へ返す。
黒い輪の内側で、形の定まらない“腕”がわずかに止まった。
帯に沿って、見えない溝ができる。黒の流れが微かに迷い、そこに集められていく。
エリナが斬る。
聖剣の光が、輪の縁のひと区画だけ、ほんの一手幅、白く欠けさせた。
欠け目から、冷たい霧が“こちら側”へ噴き出す。観客のざわめきが悲鳴に変わりそうになる。
俺は帯の撚りを逆回転させた。
井戸の桶を上げる手を、下ろす手に。
引き寄せる道を、押し返す道に。
黒い霧は、作った“道”をたどって輪に戻る。
帰り切らない分を、若木の根に流してしまわないよう、根の周囲に“土手”をイメージで築いた。
「持つか?」
エリナの問いに、俺は首を横に振る。
「持たせる」
輪の内側で、声が色を失った。
――《等しさを乱すな》
「ここは“均し”の畑だ。俺の畦は、勝手には崩れない」
黒が怒りにざらりと泡立つ。
輪の縁から、刺のような影が数条、こちらに突き出された。
エリナが迎え、光の刃で払う。
火花の代わりに、薄い灰が舞い、踏んだ草が音もなく折れた。
その瞬間、丘の下、王都の陣の方角で叫び声。
振り返ると、勇者エルドがこちらに駆けてくるのが見えた。
彼の背から、聖剣の光が走る。
「退け! 干渉するな!」
聖女マリアの制止を振り切り、エルドは丘の縁で足を止める。
目が輪を見て、わずかに見開かれた。
「……扉か。黒き“均衡”の擬態。王都の禁書と同じだ」
彼は短く息を吐き、聖剣をこちらに向けないまま、地面へと突き立てた。
光が地脈を走り、輪の足元に薄い網の目が広がる。
「固定する。だが“力”が強すぎる。俺一人じゃ保たない」
視線が俺に向く。
そこに、あの頃の高圧はなかった。
ただ、戦う者の相談の眼差しだけがあった。
「貸してくれ」
短い言葉。
俺は一拍の迷いもなく、頷いた。
帯の“戻す道”に、勇者の網を重ねる。
網目からこぼれる分を、俺が畦で受け、再び網へ返す。
聖剣の光に、若木の微かな光をあわせる。
異なる光が角を落とし合い、互いの過不足を“均し合う”感触があった。
輪の縁が、わずかに収縮した。
黒の囁きが、低い軋みに変わる。
――《輪の外で輪をつくるな》
「畦は輪だ」
俺は言う。「水は流れ、戻る。無は、来て、帰る。来た分だけ帰せ。帰りきらない分は――」
言葉より早く、エリナが動く。
刃先で、先ほど欠いた縁の“角”を、もうひとかけ、削いだ。
その小さな欠け目から、黒がシュウッと音を立てて、風船の空気みたいに抜けていく。
輪は小さく、小さく縮み――やがて石畳の亀裂の奥へ、音もなく沈んだ。
残ったのは、薄い煤と、冷たい露だけ。
長い息が丘に広がった。
村人が、ひとり、またひとりと膝から崩れ、泣き笑いの声がいくつも上がる。
勇者エルドは剣を引き抜き、刃をひと振りして光を収めた。
視線が俺に来る。
互いに息は上がっている。
それでも、笑った。わずかに、ほんのわずかに。
「……助かった」
「こっちの台詞だ」
聖女マリアが駆け上がってきて、エルドの前に立つ。
「危険です。あの“調律”は素人の真似で扱えるものではありません」
「俺は素人じゃないさ」
エルドが軽口を返しかけ、言葉を飲み込む。
「いや。今のは――こいつが“プロ”だった」
エリナが肩で息をしながら、剣を納めた。
彼女の笑顔は、疲労と安堵と、ほんの少しの誇りで光っていた。
若木の枝先で、光の実が一粒、丸く重く実っている。
俺はそれに触れず、根元の土をそっと押し固めた。
畦は輪。ここから先は、急がず、崩さず。
村長が杖をつきながら近寄り、涙声で礼を述べた。
「リオン殿、エリナ殿、そして……勇者殿。命を、村を助けてくださって……」
エルドは短く会釈し、視線を丘の下にそらした。
陣の向こう――王都へ続く街道は、朝の光を受けて白く伸びている。
「今日は約したとおり、ここまでだ」
エルドが言う。
「だが、王都は動く。魔王の動きも、今の“扉”も、無関係じゃない。……リオン、いずれ来る岐路で、お前は選ぶことになる」
「もう選んださ」
俺は若木を見て答えた。
「“ここを壊さない”って」
「それが世界を救う道と一致すればいいな」
エルドは背を向け、下り始めた。
聖女マリアはまだ不満げだったが、彼の足取りを乱すことはしない。魔導師は一度だけ、石畳の煤を指先ですくい、不気味な笑みを残して去っていった。
丘に、静けさが戻る。
だがさっきまでの静けさとは違う。
何かが開いて、閉じた。世界のどこかに皺が寄って、その皺がまた、別の場所を押し上げている――そんな感覚が、皮膚の内側に残っている。
「リオン」
エリナが囁く。「見たでしょう。あなたの“均し”は、剣の補助だけじゃない。村の土台そのものを整えられる」
「……怖いよ」
正直に言うと、彼女はふっと笑った。
「怖いなら、なおさら丁寧に。あなたはずっとそうしてきたじゃない」
若木の葉が、風に鳴る。
銀色の音は、朝日を浴びてやわらかかった。
丘を下りる途中で、俺はふと足を止めた。
石畳の一角――輪が沈んだ場所の近くに、煤ではない“線”が残っている。
子どもが棒で砂に描いたみたいな、拙い線。丸が二つ、線で結ばれ、さらにその外側に、歪んだ丸がかぶせてある。
昨夜、俺が若木の近くに刻んだ印と似ている。
ただ、外側の歪んだ丸は、今見た輪の“変質”に似ていた。
内の丸は村。外の丸は“主”。――その間にある線が、俺たちの畦かもしれない。
「誰が描いた?」
呟くと、後ろから小さな声がした。
振り返ると、昨日、芽吹いた畝を真っ先に見つけて喜んでいた少年が、帽子を握りしめて立っている。
「きのうの夜、丘の柵の上に、黒いひとが立ってて……
ぼくの耳に“おまえの絵を見せろ”って。
こわかったけど、描いたら、黒いひとは“扉は二つ、縁はひとつ”って言って消えたんだ」
エリナと顔を見合わせる。
扉は二つ――。
今、閉じたのは一つ。
では、もう一つはどこに。
空気が、ほんのわずかに震えた。
遠く、王都とも村とも違う方角。
風が、その方へ向かって、ゆっくりと吸い込まれていく。
「……森の、もっと向こう」
エリナが剣に手を置く。「古道跡。誰も通らなくなって久しいっていう」
俺は若木の葉先に触れ、光の実がひとつ、掌に落ちる音を聞いた。
冷たくも温かい、小さな重み。
帯の撚りを確かめ、掌の輪に親指を当てる。
脈が合う。呼吸が合う。
「行こう」
「うん。畦を、先に引きに」
丘の上で振り返ると、村人たちがこちらを見ていた。
笑っている者、泣いている者、まだ震えが残っている者。
どの顔も、ここにある。ここで生きている。
俺は深く頭を下げ、顔を上げた。
扉は二つ。縁はひとつ。
ならその縁を“こちら側”の形に――俺たちの暮らしの形に、織り直す。
朝の光の中、森への小道に露がまたきらめいた。
畦を引く者と、刃を振るう者。
並んで歩き、呼吸を合わせる。
足もとで、土が柔らかく鳴った。
あの輪に聞こえるように、ほんの少しだけ、強く。
――続く――




