第29話 根の間(ねのま)の灯、第一部・完
Ⅰ 朝のひと拍
結線の夜が明けた。
広場の噴水は、まるで眠りから目覚めた胸のように、四で戻り、六で笑った。
王は杯を柱から外して、石の段に置いた。
「これは王のものではない。——誰の手にも渡る器だ」
そう言って、王は杯の縁を最後にひと撫でし、列の外へ退がった。
俺は帯の芯に触れ、遠い返りを確かめる。
港の鐘は潮を返し、文庫の栞は頁に間を置き、工房の凪輪は遊びを保ち、園の凪碑は名を守り、名告りの家では凪紐が静かに息をしている。
——みんな、ちゃんと戻っている。
「一度、故郷へ」
エリナが肩で小突いた。「最初の“間”を、撫で直そう」
エルドが頷く。「たわみは俺が受ける」
マリアは笑って息を合わせ、ラザロは号鐘を布に包み、サラは凧糸を胸に巻いた。
Ⅱ 村の若木
村に入ると、若木は背が伸びて、風を受けていた。
根元には、あの“根の間の杯”があった。
昔は王の杯に似せて飾られていた器。今は、縁に細い線——“返り”の記し——が刻まれている。
「おかえり」
老婆がひとり、若木の陰から手を振った。
畦を守ってきた手。
俺は杯の内側に薄く光の樹脂を引き、村中をつなぐ細い“戻り筋”をもう一度、帯で撫でた。
ラザロの一打。
マリアの撫で歌が畦道へほどけ、エルドの網が集会所の屋根と空の間を一拍だけ支える。
エリナは刃の“腹”で家々の戸口の角を撫で、サラは凧を一本だけ上げて、列を細く呼んだ。
若木が、静かに鳴った。
Ⅲ 手紙と土産
日暮れまでに、あちこちから手紙と小さな土産が着いた。
鏡沼の漁師からは、乾いた鈴藻。
星見の塔から、傷のついた古鏡の欠片。
古坑から、煤で黒くなった板図の写し。
砂の市から、幡の端切れで作った小さな袋。
氷原から、音を覚えた氷鈴の芯。
大河から、凪堰の木札。
文庫から、凪栞の束。
工房から、薄い凪輪。
園から、掌のひらサイズの凪碑。
名告りの家から、白い凪紐。
誓言の堂から、ほどける結び方の図。
どの包みも、宛名がそれぞれ違った。
——名は差だ。差は勾配だ。
俺たちはひとつずつ開けて、若木の根の前に並べた。
“渡す器”は、王都から各地へ行って、戻って、今は村の地べたに座っていた。
Ⅳ 均しの名残
夕刻、村はずれの桑畑に、薄い灰の輪がひとつだけ揺れていた。
均しの名残——戻りを忘れた小さな“口”。
俺は帯の要を桑の根へ移し、先に“返り筋”を足す。
ラザロの一打、マリアの撫で歌、エルドの一拍。
エリナの刃が輪の縁の“ひとかけ”をやさしく掬う。
コト——
輪は欠け、そこから“無”が息のように抜けた。
桑の葉が、音もなく一枚、裏を見せた。
もう、大丈夫だった。
Ⅴ 凪の庭
村の真ん中に、小さな庭を拵えた。
若木、渡盃、凪碑、凪幕の竿、凪輪の模型、凪栞と凪紐の棚、名渡し札の小箪笥。
子は唄場で名前を唱え、老人は椅子に腰かけて一拍だけ目を閉じ、旅の者は盃に水を注いで、ふだんの声で「ただいま」と言った。
王の杯は、棚のいちばん下に置いた。
誰でも触っていい。
器は王座の上より、手のなかで“渡す器”になる。
日が落ちるころ、凪幕をひとひら張った。
風は止まらない。
——“間”だけが、庭におだやかに置かれた。
耳の奥で、薄い囁き。
――《凪、一拍。
村にも置く。
名を呼べば、返る》
Ⅵ それぞれの「ただいま」
イングリドの手紙には、帆橇に子どもの名を彫った話。
青井は索引の最初の頁に「余白は凪」を加えたと記し、ユズの字が隅に小さく笑っていた。
ナディアは幡蔵に“返り幡”の新しい織り目を、マユは渡樋の図に「凪堰」を、桂は作業手引きの冒頭に「遊びは“間”」と書き入れた。
セツは名渡し棚の引き出しに赤子の札を一枚増やし、ヤエは凪紐の結び目に“ほどける手順”を添え、篝は堂規の末尾に「固めず、戻す」と刻んだ。
緋の人々からも、短い文が届いた。
「——列に入った。器を“渡す器”に改める。帰りたいから」
それぞれの「ただいま」が、またそれぞれの場所へ帰っていく。
俺は帯の芯で、それらをそっと撫でた。
Ⅶ 旅の終わり、旅のはじまり
夜更け、若木の根の脈が掌にやさしく返ってきた。
村が息をし、王都が息をし、湖も塔も坑も砂市も氷原も川も文庫も工房も園も家も堂も、みんな“行って、戻る”を覚えている。
「第一部、ここでいったん終い」
エリナが笑って、刃を鞘に納める。
エルドは短く言う。「一拍、支えた」
マリアは頷く。「祈りは器に溜まらず、道に行った」
ラザロは号鐘を枕にして横になり、サラは凧糸を丸めて胸に抱いた。
俺は若木の根に掌を当て、静かに告げた。
「ただいま。そして——いってきます」
遠い遠いところで、かすかな別の呼び声が、すりガラス越しに揺れた。
源の方角。
だが、今夜は追わない。
“間”を置く。
行って、戻る。そのあいだに必要な、一拍を。
星がひとつ、若木の葉の間で瞬いた。
――第一部 了――




