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第20話 砂の市、風織りの畦(あぜ)

Ⅰ 砂の市は声を忘れて


 南へ下りるほど、空は白く光り、土は粒をほどいて砂になった。

 砂の市は、風の通り道に広がる布の海——色のほろが連なり、こうが漂い、値踏みの声が昼を縫うはずの場所だ。

 けれど、その日は違った。幌は垂れ、香はどこかへ吸われ、呼び声は喉の奥で折れている。

 風は行くばかりで、戻らない。


「……砂が“耳”になってない」

 俺は地面に膝をつき、掌の輪に親指を当てた。

 粒が擦れ合う音が、片道だけで終わっている。

 市の外れ、塔のように高い“風楼ふうろう”の口には、黒い薄膜が貼り付いていた。


 幌の陰から、肌を布で包んだ女が出てきた。黒い瞳が強い。

市守いちもりのナディアです。三日まえから風が片道になりました。値踏みの声も、祈りも、笑いも——みんな砂に飲まれる」

 彼女は胸元の小さな鈴を鳴らし、首を振った。

浮灯台うきとうだいや鐘は海や湖のもの。砂の市は“はた”で渡す。幡も今日は黙ってる」


 ラザロが頷く。「幡が渡しだな。合図は?」

「三段。げる、返す、める。……今は“返す”が効かない」

 エルドは風楼を仰ぎ、「たわみは俺が受ける」と短く言った。

 マリアは砂を掌に取り、拍を数える。「六拍の風。四で沈み、六で戻る——はずが、戻りが薄い」


「布で畦を引ける?」

 エリナが俺を見た。

「引ける。ここは“風の織り”の畦だ」


Ⅱ 幡と路地で畦を敷く


 市の筋は迷路のようでも、呼吸の骨がある。

 俺は路地を歩き、曲がり角に小さな印を置いた。香木を焚き、薄い煙で流れの“返り”をる。

 幡柱の間隔、路地の幅、屋台の背——すべてが風のうねになる。


「幡は、上げ下げの拍を変える」

 俺は幡織りの若者たちに言葉を渡した。

「二は撫で、四は止め、六で返す。布は斬らず、撫でる。つのを作らない」


 ラザロは市の四隅に小さな“砂鈴さりん”を配り、三段合図を定める。

 サラは肩の鐘を幌の支柱へ結び、幡がたわむ拍に合わせて鳴らす役を引き受けた。

 エルドは市場の上に薄い“網”を張り、人と荷のたわみを一拍だけ受け止める。

 マリアは祈りを器に溜めず、道にほどいて拍に印を置いた。

 エリナは刃の腹で、風がぶつかる角を一つずつ撫でて落とす。


 布が持ち上がり、路地に陰ができ、香の筋が“戻り”始めた。

 幡が畝になり、路地が返りになり、屋台がふしになっていく。


Ⅲ 砂のした


 風楼の口から、乾いた舌が降りた。

 水でも霧でもない、砂の舌。

 目に見えない刃で幡の縁を削り、声の粒を擦りつぶす。

 砂は、削ることが得意だ。角が立てば、何でも削る。


「来る」

 エリナが幡柱を蹴って身をひるがえし、刃の“腹”で砂の舌の根を撫でた。

 幡が裂けない角度。

 ひとかけ、見えない角が粉になって落ち、路地の“返り”に混じって横へ逃げる。


 俺は帯の撚りを逆に回し、市の三叉路へ大きな素焼きのかめを据えた。

 口は広く、肌は多孔たこう

 若木の光の実を薄く溶いて内側に塗る。

 ——渡盃わたしさかずき

 風も砂も、いったん受けて、別の道へ返す器。


 ラザロの合図、ひと打。

 砂鈴が一斉に鳴り、マリアの撫で歌が幡の影を柔らげる。

 エルドの網が屋台の揺れを一拍だけ止め、市の重さを支える。


 砂の舌は、いったん退いた。

 だが——。


Ⅳ 偏りの槍


 市外れの砂丘に、緋の外套が立った。

 王都で見た一派だ。

 長い杖の先に祈りと熱を“集め”、細い“風槍かざやり”を作って市場めがけて放つ。

 槍は一直線。縫い留める力。

 “偏り”は、畦を破る。


「やめろ!」

 エルドの声は短く鋭い。「縫うな、渡せ!」

「差は騒擾そうじょうだ!」

 緋の長が返す。「一点で穿うがてば、風は静まる!」


 槍が幡の列を突き抜け、路地の“返り”を折ろうとする。

 俺は甕の位置をずらし、槍の先を“先に用意した道”へ落とした。

 甕は受け、風は路地の別筋へ返る。

 槍は留まれず、力を失った。


 緋の者の一人が、ためらうように杖を下ろした。

 ナディアが布の端を握りながら、彼らに言う。

「静けさは要る。けれど、静まり返りは市を殺す。——値踏みの声が“”に戻る静けさを、私たちは選ぶ」


 彼らの足が砂の上でわずかに揺れた。

 偏りの棒は、幡の影でいつのまにか風に解ける。


Ⅴ 名を掘り出す


 風が少し戻りはじめたとき、幌の下で、少年の母親が泣いていた。

「子が、砂に……名を呼んでも返事が返らないの」

 俺は跪き、砂面に掌を当てた。

 熱の層が薄く重なり、行ったきりの息の溝が一本、細く伸びている。

「名は?」

「……“さはる(沙晴)”」


 俺は帯の糸をほどき、溝の上に“戻る道”を先に敷く。

 ナディアが布を張り、ラザロが砂鈴を二打、マリアが低く撫で歌を落とす。

 エルドが一拍、世界を支え、エリナが砂の舌の出る角を撫でて落とした。


「サハル!」

 母親が名を呼ぶ。

 名は差だ。差は勾配だ。

 溝の砂が、微かに“戻る”方向へ傾く。

 小さな手が、布の影に出た。

 砂にまみれた少年が咳をして、俺の帯を握る。

 掌の輪に、その名の“返り”が結ばれた。


 サラが肩の鐘を一度だけ鳴らす。

 チン。

 消えない音。

 市のどこかで、値踏みの声が小さく笑った。


Ⅵ 風織りの畦、仕上げ


「仕上げだ」

 俺は市の骨を見渡し、幡と幡の“撚り”を最後に一箇所、逆へ回した。

 行きと戻りの道が、互いを押し合って、抜け道を作らないように。

 海で、空で、地でやったのと同じ、当たり前の仕上げ。


 ラザロの三打。

 砂鈴が止み、幡がふっと一拍の“凪”を覚える。

 その一拍で、エリナが風楼の縁の最後の角を撫で、マリアが痛みを撫で、エルドが市全体のたわみを受けた。

 風は、戻った。


 幡がひるがえり、香が巡り、呼び声が間合いを取り戻す。

 値踏みの笑い、駄弁、口笛、叱り声——声がばらばらのまま、ちゃんと市に“帰る”。


 ナディアが風楼の陰で深く息を吐いた。

「……ありがとう。幡は渡す。今日から“返りかえりばた”の作り方を織り手に教える。幡は布の器。渡盃みたいに、いったん受けて返す」


 緋の外套の一人が、杖を肩に乗せ、砂の上で小さく頷いた。

「器は、返すために——覚えておく」


Ⅶ 凪幕なぎまく


 風が落ち、陽が傾くころ、ナディアが幡蔵から一枚の布を出してきた。

 薄灰の、大きな幕。

「祖母が織った“凪幕”。嵐の夜に一拍だけ“間”を作る布。……今まで使いどころがわからなかった」

 彼女は幕を幡柱に渡し、俺の帯の芯に端を結んだ。

 掌の輪が、軽く熱を返す。

 凪が、布を覚えた。


 幕は高くはためき、砂の市に“間”を一拍置いた。

 子どもが欠伸をし、値踏みの声が少し柔らかくなる。

 静まり返りではない、均されない静けさが布の下に生まれた。


――《凪、一拍。

  布にも置く。

  名を呼べば、返る》


 耳の奥で薄い囁きがして、砂の舌は砂へ戻った。


Ⅷ 砂の畦図あぜずと次の呼び声


 市守の倉で、古い巻物が見つかった。

 砂に擦れて黒ずんだ絹。

 広げると、幡と路地と風楼の位置が“畦”として描かれている。

 節には、風塔だけでなく“井戸口”“香台”“唄場うたば”と記されていた。

 唄場——歌うための“節”。

 端に小さな文字。


砂は声で返る。

唄場を節に、幡を畝に、井戸を返りに。

偏りは槍。

槍は、受けて返せ。


 俺は笑って巻を閉じ、ナディアに手渡した。

「市は自分で守れる。幡と唄で、返りを織れる」

「ええ。……でも、あなたたちが教えてくれた“渡す器”も残す」

 ナディアは甕を撫で、「市の角を落とす道具」と冗談めかして言った。


 サハルが砂まみれの手で俺の帯をつついた。

「ねえ、これ、“帰ってくる縄”なんだって?」

「そう。行って、戻る」

「じゃあ、また来てよ」

「ああ。——必ず」


 砂の端で、ラザロが肩の号鐘を叩いた。

 ゴォン、と一打。四隅の砂鈴が応え、幡が低く笑う。

 エルドは網を解き、マリアは祈りの最後を道にほどき、エリナは刃を収めて俺の肩を小突く。

「次、どこ?」


 掌の輪が微かに熱くなり、今度は冷たい匂いが運ばれた。

 すりガラス越しの鐘に、雪の粉が混じるような声。


――《北冠ほっかんの氷原。

  凍ての風は片道、声は凍り、名は眠る。

  “渡す者”を呼べ》


 砂の市の空に、夕星がひとつ。

 布の海の端で風がやさしく折り返し、凪幕がわずかに揺れた。


「氷か」

 エルドが息を白くするように笑った。

 ラザロが肩を回す。「笛が凍るなら、太鼓を叩くさ」

 マリアは拍を数え直し、サラは凧糸を別の巻きに替える。

 エリナが頷く。「角は凍っても、撫でれば落ちる」


 俺は帯の芯に、村の若木の返りをもう一度、確かめた。

 遠く、あたたかく、確かに在る。

 行って、戻る。

 壊さないために。

 歌と名前を、渡すために。


 砂の市に“間”の夜が降りる。

 幡が星の風を受け、唄場に小さな歌が灯る。

 俺たちは北へ向けて歩き出した。


――続く――

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