第19話 古坑の喉(のど)、地の畦(あぜ)
Ⅰ 口を忘れた坑道
北東の山裾、捨てられたはずの鉱山――古坑は、朝だというのに夜の匂いがした。
湿った木と錆の香り。軋むはずの滑車は黙り、坑口の風は“入るばかりで、戻らない”。
俺は帯の芯に触れ、返りを探った。……薄い。行った息が、帰る道を忘れている。
坑夫頭の老人が、灯を掲げて出迎えた。
「三日前からだ。風が吸うだけ吸って、鳴き岩も鳴かねえ。小僧が一人、奥で迷って戻れなくなったって話もある」
ラザロが短く合図を吹き、周囲の渡し衆に三段を説明する。
エルドは坑壁を見上げ、静かに言った。「たわみは俺が受ける。崩すな。——壊さない」
マリアは膝をつき、地の拍を数える。「四拍で沈み、四で戻るはずが……三で止まってる」
「戻りの一拍が、どこかで“飲まれてる”」
俺は答え、坑口の枠木に掌をあてた。木目が、遠い王都や湖の返りとゆっくり繋がる。
「行こう」
エリナが鞘口に手を置く。「角は撫でて落とす。地の中でも」
Ⅱ 地の畦を敷く
坑道は、天井の低い喉のようだった。
ところどころに立つ坑木を“節”に見立て、俺は足で薄い線を敷いた。
レールは“返り”に使える。空の梯で覚えた縦の節を、今度は水平に編み直す。
ラザロは打音を決める。「柱で一打、分岐で二打、止めは三打」
サラは肩の小鐘を外し、鉱車のハンドルに結んだ。
エルドは坑木の列をなぞり、薄い“網”を張る。
マリアは祈りを器でなく道にほどき、二・四・六で節を置いた。
俺は帯をレールとレールの間に通し、撚りをほどいた“糸”で、行って戻る道を先に引く。
坑内の空気が、少しだけ肩を落とした。
喉が、息の仕方を思い出し始める。
Ⅲ 偏りの楔
最初の大空洞に出た。
中央に黒ずんだ祭壇――いや、“寄せ場”がある。
安全を願う札、金鎚の破片、布切れ。
それらが幾重にも重なり、重みで地を“片方へ”引いていた。
均しではない。偏りだ。
マリアが眉を寄せる。「王都で見た“集め祈り”の野良。一箇所へ寄せて、静かさで黙らせる術」
エリナが低く言う。「角がむき出し。斬れば、畦まで切れる」
寄せ場の根元には、鉄の楔が一本、地へめり込んでいた。
刻印は緋。
王都の一派が“試し”に来た痕跡だ。
「受けて、返す」
俺は楔の周りに帯の道を先に掛け、渡盃代わりに小さな鉱車を据えた。
鉱車の槽に若木の光の実を薄く溶いて塗る。
いったん受け、別の道へ返す器。
「合図、一打」
ラザロ。
エルドの網が天井の重さを一拍だけ受け、マリアの撫で歌が痛みをほどく。
エリナが刃の腹で楔の角をそっと撫でると、ひとかけ粉になって鉱車へ落ち、レールの“返り”で奥へ流れた。
偏りは唸り、しかし崩れない。
角を、ひとかけ、ふたかけ。
寄せ場は、ゆっくり“戻る”方向へ傾き直す。
Ⅳ 古坑の喉
さらに奥へ降りると、坑道の幅が急に狭くなった。
ここが“喉”だ。
息が通らない。
床の水は吸われるばかりで、戻ってこない。
鳴き岩は歌を忘れ、音は全部、厚い布で包まれたみたいに潰れている。
そのとき、地の底から“舌”がせり上がってきた。
空の舌とも海の舌とも違う。
重い。冷たい。沈黙を押し付ける舌。
それは俺たちの足元の石を舐め、拍の四で戻る息を“喰おう”とする。
「角、来る!」
エリナが身を沈め、刃の腹で舌の根の角を撫でた。
粉が落ちる——が、すぐ“戻らない”。
地は、受けたものを抱え込むのがうまい。
「鉱車!」
俺は帯の要を移し、返りの道を鉱車へ繋いだ。
サラがハンドルを押し、鉱車が喉の手前で往復を始める。
鉱車は渡盃だ。
受けて、返す。
粉は槽へ落ち、レールの“戻り”で別の坑口へ送られていく。
ラザロの二打、三打。
エルドの網が一拍、天井を支え、マリアの撫で歌が舌の痛みを撫でる。
喉は、わずかに通い始めた。
Ⅴ 迷い子の名
曲がり角の先で、小さな灯が震えた。
岩陰に、煤だらけの少年。
肩に打ち傷、目は乾いて、声は出ない。
俺はそっと膝をついた。
「名、教えてくれ」
少年は唇を噛んで、掠れた声で言った。
「……りく」
胸の奥が、きゅっとなる。
山の祠で拾った、幼い筆の木札にあった二文字。
偏りに“集められた名”。
帰り道を失くしていた名だ。
「返そう、リク」
俺は彼の掌に自分の輪を軽く触れさせ、帯の返りにその名を結んだ。
名は差だ。差は勾配だ。
名が結ばれれば、道は“自分の場所”へ傾く。
少年の喉が、初めて音を返した。
エリナが微笑み、肩から上着を外して少年に掛けた。
サラが鉱車の揺れを見計らい、小さく鐘を鳴らす。
チン。
消えない音。
リクの目に、涙が戻った。
Ⅵ 崩れの拍、凪の一拍
喉のさらに奥で、地が低く吠えた。
偏りの最後の角が立つ。
エルドが短く叫ぶ。「天井、来る! 一拍しか持てない!」
マリアが息を吸い、声を地へ敷く。「痛み、撫でる。二、四、六——!」
ラザロの号、止めの三打。
鉱車が「受けて、返す」を最後までやり切る。
俺は帯の撚りを逆回転させ、要を“喉の真上”へ移す。
そこへ——風が、やわらかく置かれた。
――《凪、一拍》
耳の奥で薄く鳴り、天井の重さが“間”を覚えた。
一拍。
その一拍で、エリナが舌の根の最後の角を撫で落とし、粉は鉱車へ落ち、レールの返りで遠くへ消えた。
喉が、通った。
崩れは起きない。
地は、息をした。
四で戻る。
当たり前のことが、ようやく当たり前に戻った。
Ⅶ 喉の奥の記
喉の先に、小さな祭室があった。
床に埋め込まれた黒い板。
指で泥を拭うと、線が浮かび上がる。
地の畦図。
坑木を節、レールを返り、鉱車を渡盃に見立てた図。
端に掠れた文字。
地は重く、重さは道を覚える。
偏りは楔。
楔は、受けて返せ。
俺は笑ってしまった。
ここにも“畦人”がいた。
畑の人、海の人、空の人……そして地の人。
みんな同じ手つきで“行って、戻る”を守ってきた。
板の裏には、もう一行。
喉に名を置け。
名は、帰り道。
リクが小さな声で自分の名を言う。
「りく」
喉が、さらにやわらかく鳴った。
Ⅷ 帰路、縁を渡す
坑口へ戻ると、外の風はもう“行って、戻る”を思い出していた。
鳴き岩が小さく歌い、滑車が当たり前の音で軋む。
坑夫頭が帽子を胸に当て、深々と頭を下げた。
「助かった。……坊主も、戻れた」
ラザロが渡し衆へ目配せし、三段合図を短く打つ。
マリアは祈りの最後を道にほどき、エルドは網を解いて空を見上げた。
エリナは刃を収め、俺の肩を小突く。「やった」
その時、坑外の松陰から、緋の外套が一人、姿を現した。
杖は下ろされ、目はどこか疲れている。
彼は俺たちを見るでもなく、坑口の枠木に手を置いた。
「……“器で縫う”のは、楽だ。だが、何も戻らない。
お前たちの“渡す器”を、見に来た」
エルドが短く言う。「列に入れ。戻りたいなら」
緋の男は頷きもせず、坑口に小さく一礼して去っていった。
風がやわらいだ。
若木の返りが遠く、確かに胸に戻る。
俺たちはリクと坑夫たちを見送り、山道へ出た。
帯の芯に、地の畦の細い糸が新しく結ばれているのを感じる。
空、海、地。
畦はどこにでも引ける。
差は歌になり、名は帰り道になる。
そのとき、掌の輪が微かに熱くなり、別の方角から“すりガラス越しの鐘”のような声がした。
――《南、砂の市。
風は行きっぱなし、市は砂に飲まれ、名は埋もれる。
“渡す者”を呼べ》
エリナが唇を結び、俺を見た。
「砂でも、撫でる?」
「撫でる。撫でて、返す」
ラザロが号鐘を肩に担ぎ直し、サラは凧糸を巻き、マリアは拍を数え直す。
エルドは短く言った。
「行って、戻る」
山風が背を押した。
俺たちは南へ向けて歩き出す。
人の列で縁を渡し、畦で道を引く。
壊さないために。
そして、埋もれた名を、砂の上に“返す”ために。
――続く――