第18話 星見の塔、星の節(ふし)
Ⅰ 塔へ
鏡沼を離れて半日の山道。
尾根の先に、石を積み上げただけの古い塔が立っていた。屋根は落ち、柱は痩せ、螺旋階段はところどころ空へ抜けている。
麓で拾った薄板――空の畦図を、俺はもう一度ひっくり返した。七つの輪が縦に連なり、星の形の印が節として刻まれている。端には、掠れた文字。
星見の塔に渡せ。
六と七の拍が重なる夜、縁を撫でろ。
「今夜がその拍だ」
エルドが空を見て言う。「月は欠け、北の流れが速い。……たわみは俺が受ける」
ラザロは背の号鐘を外し、塔の踊り場ごとに吊るす鈴の数を決めた。
「下から三、四、七。三段合図。渡す、返す、止める。上に行くほど返りを太くする」
マリアは古い段鼻に手を当て、ひとつずつ拍を数える。
「二拍目で空気が沈み、四拍目で戻る……けど、ここは“戻り”が細い」
「だから梯を足す」
俺は頷き、帯の芯に触れた。村の若木、王の指環、聖堂の噴水、港の鐘――遠くの“返り”が、細いけれど確かに揺れている。
サラは肩の小鐘を撫で、息を整えた。
「私、凧を上げます。湖で覚えましたから」
「頼む」
エリナが笑む。「私は角を落とす準備。空でも“撫でる”は変わらない」
Ⅱ 空の畦を敷く
夕つ方。塔の天井のない最上段に、薄い鏡板を四方へ向けて立てた。
金属は使わない。風が硬くなるから。磨いた黒石と水面の薄膜で、星の光を“撫でて返す”。
塔の外では、サラと渡し衆が細い絹糸で凧を繋ぎ、結び目ごとに小さな風鈴を吊るしていく。
凧は山風を掴み、星の方角に“縦の節”をひとつずつ浮かせた。
俺は帯の撚りをほどき、糸に戻して塔と凧の間を結ぶ。
縦の梯。
風と音に“戻り”の癖を覚えさせる。
呼吸するたび、掌の輪が小さく鳴った。
「合図、一打」
ラザロの号鐘が塔内で低く響く。
ゴォン——
鈴が順に鳴り、上昇気流が“列”になった。
「マリア、二拍目に撫でで」
「はい」
祈りが器に溜まらないように、彼女は言葉を“道の歌”にほどき、二、四、六で節を置く。
エルドは塔と周囲の空に薄い“網”を張り、跳ねる力を一拍ずつ受け止める。
空の色が少し変わる。
青の向こうで、透明な何かがひと息吸った――そう思った瞬間、塔の上空に、皿を伏せたような白い輪が現れた。
Ⅲ 口、降りる
輪の縁から、音のない“舌”が垂れた。
水でも霧でもない。乾いた、冷たい、無の舌。
吊った鈴を舐めるたび、音が丸く削がれていく。
「角、立つ!」
エリナが身をひるがえし、刃の腹で舌の根を撫でた。
ひとかけ、粉が落ちる。
粉は帯の道に拾われ、凧の列を伝って“横へ”逃げた。
マリアの撫で歌が痛みをやわらげ、エルドの網が一拍だけ空を支える。
だが舌は増えた。
次の舌が鏡板を舐め、次の舌が塔の石をなぞる。
石は音を失い、夜は“沈黙”に傾く。
「名を!」
ラザロが塔の縁から、ふもとの人々へ叫ぶ。「上へ渡す名を、呼べ!」
山裾から、名が上がる。
「灯台シエル!」「星見台のヨハン!」「鐘守ラザロ!」「サラ!」
名は差だ。差は勾配だ。
列が太り、縦の畦に“人の縁”が通う。
サラは凧の糸を握り、肩の鐘を小さく鳴らした。
チン――消えない音。
彼女は自分の名を、風に向かってはっきり言った。
「サラ!」
Ⅳ 偏り、針の雨
その時、北側の尾根に、緋の外套がいくつも灯った。
王都の術師の一派。杖先に祈りを“集め”、空へ向けて細い光の針を放つ。
偏りの棒が針になり、縦の梯を縫い留めようとする。
「やめろ!」
エルドが叫ぶ。「縫うな、渡せ!」
「差は乱れだ!」
緋の長が返す。「一点で縫えば裂け目は閉じる!」
針が鏡板へ落ち、鈴の列を切り裂いた。
空の口が喜ぶ。
均しでもない、偏りでもない――“道殺し”の合図。
「受けて、返す!」
俺は帯の撚りを逆回転させ、塔の中心に浅い水鉢を置いた。
若木の光の実を薄く溶いた“渡盃”。
針は鉢に落ち、そこから風の梯の別段へ“返る”。
偏りは留まれず、力を失った。
緋の長が歯噛みする。
「器を……返すために使う……!」
王都で交わした答えを、空の上でもう一度置いた。
Ⅴ 星の節
空の口は、硬く縁を固めた。
硬いものは角が立つ。
角が立てば、落とせる。
「星を使う」
俺は空の畦図を床に広げ、星の印に合わせて鏡板をわずかに向き直した。
黒石の面に、かすかな星の筋が映る。
星は節だ。節に線が従う。
「合図、二打!」
ラザロ。
鈴の列が震え、マリアの撫で歌が拍を叩く。
エルドの網が天蓋を一拍支える。
「いま!」
エリナが刃の先で、皿の縁の“ひとかけ”を、やさしく掬った。
コト、と小石が空の外へ落ちる手応え。
輪の白が薄く欠け、そこから“無”が息のように抜ける。
口は小さくなり、舌は痩せ、鈴の音がふたたび生まれる。
塔の石が、音を取り戻した。
Ⅵ 名、返す
塔の足元で、古い石箱がひとつ、継ぎ目から光を漏らした。
こじ開けると、中に黒ずんだ紙片が束ねてある。
星見の記。
欠けた文字の中に、幼い筆致の名がひとつだけ、鮮やかに残っていた。
「……あやめ」
サラが小さく読み上げた。
胸の奥が熱くなる。
誰かが、空へ“戻せず”にいた名。
名は道の印だ。集めずに、渡す。
「返そう」
俺は紙片を帯に挟み、星の節の上で、低く名を呼んだ。
「アヤメ」
鈴が一つ、澄んだ音で応えた。
塔の上で、細い流星が一筋、静かに“戻る”方角へ走った。
マリアが祈りを結び直し、道にほどく。
エルドは網を解き、ラザロは号で“止める”を打つ。
空の口は、呼吸を覚えた器のように静かになった。
Ⅶ 凪の返事
風が柔らかく落ち、塔の鈴が一度だけ揺れた。
耳の奥で、薄い囁き。
――《凪、一拍。
空にも置く。
名を呼べば、返る》
エリナが刃を収め、俺の肩を小突く。
「空でも“撫でる”は通じるって、言ったでしょ」
「うん。……怖かったけどな」
言うと、彼女は笑って、星の端を顎で示した。「怖いなら、なおさら丁寧に」
緋の一団は杖を下ろし、尾根の向こうに消えた。
エルドは背を向けず、ただ一言だけ投げる。
「列に入れ。帰りたいなら」
サラが肩の鐘を握り、塔の縁で空を仰いだ。
「渡せました。湖から、空へ」
ラザロが頷く。「ああ。渡した。次は“地”もだな。空、海、地。どこにも畦は引ける」
Ⅷ 帰路、そして次の呼び声
塔を下りる途中、俺は掌の輪に親指を当てた。
村の若木の返り。王の指環。聖堂、港、鐘。
空の畦の細い糸が、それらに静かに結ばれていく。
麓に降りると、夜は“間”を保ったまま明け始めていた。
鐘は一打、四隅が応じ、山裾の子どもがあくびを返す。
名は名の場所へ、音は音の場所へ、戻っていく。
その時、北東の空の低いところで、もう一つ、薄く輪が光った。
湖とも、塔とも違う方向。
耳の奥で、石がきしむような別の声。
――《地の底。
古坑の奥で、偏りが眠りを覚ます。
水は行きっぱなし、声は戻らず。
“渡す者”を呼べ》
俺は帯を握り直し、エリナと目を合わせた。
「行く?」
「行く。角は撫でて落とす。道は、あなたが引く」
ラザロが号鐘を肩に戻し、サラは凧糸を巻き取り、マリアは拍を数え直す。
エルドは短く言った。
「空はひとまず凪。今度は地脈だ。——行って、戻る」
星はまだ見えていた。
畦は、空にも、海にも、地にも引ける。
差は歌になり、名は帰り道になる。
俺たちは、北東の古坑へと足を向けた。
――続く――