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第16話 畦人(あぜびと)の碑、凪(なぎ)の夜道

Ⅰ 帰路


 王都を出て、城門の外で一度だけ振り返った。

 聖堂の噴水は二拍沈んで、二拍で戻る。鐘楼は風の“返り”を忘れず、広場には均されない静けさ――が残っていた。

 王は杯を抱えたまま、人の列に混じって歩き出す。器を王座に据え直すのではなく、道へ持ち出す。そう決めた背中だった。


 街道には、渡盃わたしさかずきの儀を見届けた人々の声が残っていた。

「行って、戻る」「名を呼べば、返る」――往来の端々で、その言葉が合図のように交わされる。

 俺は帯の芯に触れ、村の若木からの返りを確かめた。遠く、あたたかい脈が確かに在る。

 行って、戻る。今日もそれを繰り返すだけだ。


 エルドは先頭に立ち、網を薄く張って道のたわみを受ける。

 マリアは祈りの拍を歩幅に合わせ、ふしを作る。

 ラザロは号鐘の代わりに短い笛を吹いて、渡す・返す・止めるの三段合図を軽く示す。

 エリナは刃を鞘に納め、手の甲で風のつのを撫で落としていく。


 人の列は道になり、道はあぜになる。

 王都で学んだことが、歩くほどに身体に馴染んでいった。


Ⅱ 村へ


 丘を越え、畑の匂いが風に混じり始めたとき、最初の子どもの声が聞こえた。

「リオンさんだ!」

 駆け出してきた小さな足が、俺の帯に触れて止まる。

「綱、ちょっと持たせて!」

「いいけど、引っ張るな。重さの“返り”が――」


 言い終える前に、帯の撚りがふわりと笑った。

 村の若木の根が、こちらのやり取りを聞いているような温かさで。

 広場に入ると、若木は枝を伸ばしていた。銀の葉は去年よりも濃く、光の実が二つ、朝露を抱いている。


 村長が杖を突きながら近づいてきた。

「お帰りなさい、リオン殿。皆さまも……王都の風を、村まで運んでくださった」

 隣にエリナが立って、いたずらっぽく笑う。「運んだのはリオンの帯よ。私は角をちょっと撫でただけ」


 そのとき、子どもたちの後ろから老人たちが石板を運んできた。

 割れ、苔むし、土の匂いをまとった石――縁に古い輪の文様、中央に細い線が八方に伸び、ところどころに印。

「畑の端から掘り出したのです」村長が目を細める。「収穫のあと、土を均していたら出てきましてな。……“畦人の碑”と呼ばれておったものに相違ない」


 石の表面を、指でなぞる。

 皮膚が、昔から知っていたように震える。

 線は水路で、風道で、人の列。印は節。輪は掌。

 その脇に、小さく刻まれていた文字は、掠れてなお読めた。


——「畦は列なり。列は手なり。手は人なり。

  輪は掌に宿り、名は帰り道」


 俺は思わず笑っていた。

 王都の禁書庫で見た断片が、村の土で繋がる。

 畦人はこの村にもいた。いや、“畦人”は村の中の誰にでもなり得るのだ。列に立てば、手になり、手が輪を持つ。


「碑は、若木の根元に置こう」と村長。

「いいですか?」と俺は若木に手を添える。

 根が軽く鳴り、葉がひとひら揺れた。

 返事のような、なぎの“間”のような。


Ⅲ 『さとあぜ』のはじまり


 夕刻までに、村の広場へ細い線がいくつも引かれた。

 畝のように見えて、実は人の列の練習だ。

 俺は子ども組、エリナは若者組、村長は長老組、マリアは女衆と歌組、ラザロは渡し役の稽古――それぞれが節と節の間に立つ。

 名前を呼ぶ。返す。止める。

 王都でやったことを、村の足でやり直す。

 里に敷く畦――『里あぜ』のはじまりだ。


「角、立つぞ」

 エリナの声に合わせ、子どもたちが木の棒で空を撫でる。

 “斬らない”。撫でる。

 笑いながらも、撫でた場所にだけ風の角が立たなくなるのを、彼らはちゃんと感じ取っていた。

 ラザロが短く合図し、老人たちが間を置く。

 マリアの低い歌が、畑のうねりと同じ拍を村に落とす。


 俺は帯の芯に触れ、村の若木と王都の杯と港の鐘を“返り”で結んだ。

 遠い列が、ゆっくり村の列に重なる。

 渡盃の“返る器”は、ここにも息を運んできた。


Ⅳ 夜の凪


 稽古が終わる頃には、空には一番星がかかっていた。

 焚き火の火は低く、笑い声は残って、怒鳴り声は残らない。

 若木の下で、俺とエリナは肩を並べて座った。


「王都、すごかったね」

「うん。驚かされっぱなしだった」

「でも、ここが好き」

 彼女は短く言って、若木の幹に背を預ける。

 銀の葉が“間”を作るようにざわめき、光の実がひとつ、ゆっくり重さを増している。


「ねえ、リオン」

「なに」

「あなたの『均し』、最初は“便利な力”だと思ってた。今は……“優しい力”だと思う」

「優しい?」

「角を落とすとき、いつも撫でてたでしょ。あれって、戦いじゃなく、生活のための手つきだよね。あなたがしてきた“直す”と同じ」


 胸の奥が、ゆっくり温かくなる。

 返事の代わりに、俺は若木の根に掌を当てた。

 輪が、微かに鳴いた。

 その音に混じって、風の底から薄い囁きが上がってきた。


――《凪、置く。

  今夜の村に、一拍》


 風がやわらぎ、焚き火が小さく息をした。

 凪だ。

 均しの“願い”に名が与えられてから、初めて村で感じる凪の夜。

 誰の声も消えず、重ならず、ただ“間”だけがそっと在る。


Ⅴ 碑の裏


 夜半、片付けの終わった広場で、村長が俺を手招きした。

「碑の裏を見たかね」

「裏?」

 若木の根元に据えた石を二人がかりで少し起こすと、裏面に細い刻みが、夜露に濡れて浮かび上がった。

 前面と同じ輪と線。だが、文字はほとんど欠けて読めない。

 ただ、ひとつだけ、鮮やかに残っている言葉があった。


——「かたよりをゆるすな。

  偏りは、畦を破る。

  偏りを“渡せ”。」


 偏り。

 均しの反対側。

 差を丸める力ではなく、差を無限に積み上げ、流れを一方向に押し潰す力。


 エリナが石に手を添え、眉をひそめる。

「……見覚えがある。王都で魔導師たちが試していた“集め祈り”。祝福を一点に寄せて、静けさじゃなく“鈍痛”で押し黙らせる術」

 マリアが静かに頷いた。「器を壊れさせる均しと同じくらい、畦を壊す偏りがある。どちらも“名を呼ぶ道”を潰してしまう」


 その時、山の方角から、乾いた音が届いた。

 土の棚が一段、崩れ落ちるみたいな音。

 続けざまに、低い、鈍い唸り。


 ラザロが夜空へ笛を二度。渡す・返すの合図。

 村の犬が吠え、見張り小屋に灯が入る。

 俺は帯の芯に触れ、山側へ指を向けた。

 返りの糸が、そこだけ“詰まって”いる。

 流れが行きっぱなしで、戻ってこない。

 ――偏りだ。


棚田たなだの上、石牛いしうしほこらのあたり」

 村長の顔色が変わる。「あそこは水配りの要だ。崩れれば、畦が一気に切れる」


「行こう」

 俺は帯を肩に掛け直し、若木の根へ掌をあてた。

「凪、少しだけ“間”を貸して」

 銀の葉が一枚、静かに折れて落ちる。

 風が、山へ行って戻る小さな“道”をつくった。


Ⅵ 山の口


 夜の山道は、土と杉の匂いが濃い。

 棚田の段をいくつも横切っていくと、上の方で白いものがちらついた。

 祠の石札が、半ば土から抜け、斜めに傾いでいる。

 その根元に、黒くない“塊”があった。


 光を当てると、それは祈りの札や布きれが幾重にも結び付けられ、石と土を抱え込むように貼り付いた“団塊”だった。

 祝福と願掛けを一箇所に寄せ、重さを増やして地を引き下ろす。

 均しではない。“偏り”だ。

 誰かが意図して作った――王都の緋の術師たちが実験していた“集め祈り”の野良変種か。


「触るなよ」

 エリナの声が低くなる。「角がむき出し。刃で切ると、畦も切れる」

 マリアは祠の前に膝をつき、薄く祈りを敷く。「撫ででほどく。……でも、時間がかかる」

 エルドが周囲に網を張り、棚田全体のたわみを一拍ずつ支える。

 ラザロは段下の村へ笛を送り、若者に土嚢と綱を求める。


「渡す」

 俺は帯の撚りをほどき、団塊の周りに“返りの道”を先に引いた。

 行って戻る道。

 祈りの重さを、少しずつ“渡盃”の手で受け、別の道へ返す。

 王都で杯に教わったやり方だ。

 団塊は唸り、石札がぎしりと軋んだ。


「いま」

 エリナが刃の腹で、団塊の最も尖った角を撫でる。

 マリアの祈りが“撫でしろ”を与え、角が粉になって落ちる。

 粉は帯の道に混じり、棚田の畦へ戻る。

 エルドの網が、その瞬間だけ地の重さを受け、崩れを止める。

 ラザロが笛で返しを送り、下段の若者が土嚢を積む。


 角をひとかけ、ふたかけ――。

 団塊の“偏り”がほどけるたび、棚田の水が静かに“返り”を思い出す。

 段の端に立っていた石牛が、わずかに首を上げたように見えた。


 最後の角を撫で落としたとき、祠の札が土にふわりと戻った。

 団塊は力を失って崩れ、土と布と欠けた札に分解される。

 風が一度だけ止まり、すぐに戻った。

 凪の“間”だ。

 その間に、棚田は息を整えた。


Ⅶ 名を拾う


 崩れた布の束の中から、小さな木札が出てきた。

 煤けて、文字はほとんど読めない。

 ただ、一文字だけ、はっきり残っていた。


「……名?」

 エリナが首をかしげる。

 マリアが掌で撫で、煤を吹いた。

 浮かび上がったのは、幼い筆で書かれたひらがな二つ。


「り く」


 俺は胸の奥がきゅっとなるのを感じた。

 子どもの字だ。

 誰かが、ここへ“名前”を集めてしまった。

 守りたい名を、一箇所に。

 偏りは、優しさの形をして現れることがある。


「……返そう」

 俺は札を帯に通し、静かに言った。

「名は道の印。集めずに、結ばずに、持ち主のところへ“返す”。」


 ラザロが頷き、笛を一度だけ鳴らした。

 下段から若者が走ってきて、木札の出所を言い当てる。

「山の反対側の小屋だ。去年、病で……」

 言葉は途切れたが、列は続いた。

 名は、帰り道を見つける。


Ⅷ 里帰りの終わり、明日の始まり


 夜明け前、村に戻ると、若木の葉が露に濡れていた。

 枝先の光の実が一粒、ちょうど落ちて土に当たり、音もなく溶ける。

 掌の輪が、ふっと温かい“間”を返した。


「偏りも、均しも、どっちも“道”を殺す。……けど、どっちの力も、名を呼んで“渡せる”なら、護りに変えられる」

 俺は自分に言うように呟いた。

 エリナが横で頷く。「あなたの手は、いつもそうしてきた」


 村長が杖で地面を軽く叩く。

「『里あぜ』は今日から村の仕事になる。子どもも、年寄りも、名を呼んで列に入り、角を撫で、渡す。王都がどうなろうと、わしらの暮らしは自分の手で均す」


 ラザロは号鐘を肩に担ぎ直し、笑った。

「鐘は街の手だが、村にも鐘はいる。木を削って作ろう。子どもらに渡しを教える」


 マリアは若木に掌を添え、低く祈った。

「祈りは器にも道にも宿る。――わたしは、道を選ぶ」


 東の空が白み、鳥が一斉に声を返す。

 遠い王都の鐘が一打、遅れて四隅が応じる。

 返りは、確かに繋がっていた。


 若木の根元の碑に指を置き、俺は文字をもう一度なぞった。

 畦は列なり。列は手なり。手は人なり。

 輪は掌に宿り、名は帰り道。


「行こう」

 エリナが立ち上がる。「朝のうちに、棚田の畦を見て回ろう」

「うん。行って、戻る」


 そのとき、丘の向こうから小馬が一頭、汗を散らして駆けてきた。

 王都の色ではない。旅の色。

 騎手は若い女で、肩に小さな鐘を吊るしていた。

「渡しの者を探している!」

 息を切らし、叫ぶ。

「北境の湖に“空の口”の兆し――水面に、光の輪。王都からの列が届かない。手を貸して、ください!」


 空の口。

 水の上の輪が空へ開くとき、差は流れず、落ちる。

 村の若木が、風に小さく鳴った。

 掌の輪は、遠い冷たい返りを覚え始めていた。


 俺は帯を握り直し、若木に軽く額を押し当てた。

「行って、戻る。……また、道を引こう」


――続く――

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