第15話 渡盃(わたしさかずき)の儀、名を与える
Ⅰ 広場に畦を敷く
王都広場は、人と声で満ちていた。
壇上の中央には、根の間から運ばれた黒石の杯――“均杯”。その縁には、新しくごく浅い溝が刻まれている。行って、戻すための「返り」。
王は簡素な外套で立ち、勇者エルド、聖女マリア、鐘守ラザロ、剣士エリナ、そして俺の五人が杯を囲んだ。四隅の小鐘には見習いのルカとミーナが立ち、合図を待っている。
俺は先に地面へ畦を敷いた。
巡礼路を畝に、噴水を返りに、鐘楼を節に。
指で描く線は薄いが、足で踏めば道になる。人が列になれば、畦は太る。
掌の輪に親指を当てると、村の若木の脈、王の指環の冷たい返り、聖堂の水の拍、港の鐘の間が、一度に「いる」と応えた。
「リオン」
エリナが視線だけで問う。
俺は頷く。「角が立ったら合図をくれ。撫でて落とす」
エルドは壇の外周に薄い“網”を張り、王城から広場へ流れ込む重さを一拍だけ支える用意をする。
マリアは聖歌隊に短く言った。「器の歌ではなく、道の歌で」。
ラザロは鐘手たちへ三段合図を示し、最後に子どもたちへ低くささやく。「怖くなったら、自分の名を呼べ」
Ⅱ 始まりの一打
王の声は、古い石の鳴りのように低かった。
「王は杯を“渡す器”と改める。今日、この場で“返り”を誓う。……そのために、名を問う」
ラザロの号鐘が一打。
ゴォン——
街の四隅が呼応し、列は太くなる。
聖歌が高く立ち上がり、祈りは器へ溜まらず、畦へ流れ出した。
黒石の杯が、わずかに汗をかいたように濡れ、縁が脈打つ。
“願い”の声が、今度ははっきり音になって上がってきた。
――《差は痛み。均せば静けさ。
静けさは救い。名は要らぬ》
俺は杯の台座に帯を回し、撚りをほどいて糸に戻す。
糸は石の隙へ“行き”、薄い返りを連れて“戻る”。
掌の輪が温かくなった。
「名を要らないと言うなら、なおさら“帰る先”が要る」
俺は静かに答えた。「名は戻り道の印だ」
杯の縁に、すっと“角”が立つ。
エリナが刃の腹で撫で、角は粉になって返りに混じった。
マリアの祈りが痛みを撫で、エルドの網が一拍、世界を支える。
ラザロの二打目で、人々の息がそろった。
Ⅲ 名の列
「みんな、名前を呼んでくれ!」
俺の声に、広場が一瞬ためらい、そして――ぽつ、ぽつと名が落ち始めた。
「鍛冶の師のガット」「北門の番マルタ」「孤児院のパン窯」「ルカとミーナ」「旅に出た弟」……
名は差だ。差は流れの勾配だ。
呼ばれた名が列になり、見えない手が繋がり、杯の周りに“縁守”が生まれる。
“願い”は、ほんのわずか戸惑った気配を見せた。
――《名は境をつくる。境は痛みを分ける》
「境は痛みを留める畦だ」
俺は帯の要を移し、返りを太らせる。「流れが行き過ぎないように、いったん受けて、返す」
杯の内側に、もうひとつ舌が伸びかける。
エリナの刃が舌根の角を撫で、マリアの祈りが“撫でしろ”を与え、エルドが一拍固定し、ラザロの三打目で列が一斉に息を吐く。
舌はしぼみ、粉は道へ帰る。
Ⅳ 揺さぶり
そのとき、壇の下で一団がざわめいた。
鮮やかな緋の外套――王都の魔導師の一派が、杖を掲げる。先頭の男が声を張った。
「王の権能は器に宿る! 名なき“願い”に名を与えるなど、秩序の逸脱だ! 均せば争いは消え――」
「消えない」
エルドが遮った。言葉は短く、刃物のようにまっすぐだった。
「消えるのは声だ。争いは“声が聞こえないこと”から生まれる。……下がれ。今は人の列の番だ」
魔導師は唇を歪め、杖先に無風の光を集めた。
杯へ向かう“無”の針。
俺は帯の撚りを逆転させ、畦の要をひとつ増やす。
針は“先に用意した戻り道”に落ち、力を失って消えた。
王が横目で魔導師を一瞥する。
「王は“返り”を選んだ。従わぬなら、王の輪から出よ」
緋の一団は声を失い、杖を下ろした。
杯の縁で、角がまたひとつ小さく立つ。
エリナの刃が撫で、粉は返る。
広場の列は乱れず、むしろ太った。
Ⅴ 名を与える
“願い”の声は、音の奥でかすかに震えた。
――《昔、飢饉の年があった。
泣き声を等しく薄めれば、痛みは薄まると思った。
名を呼ぶ声が増えるほど、痛みも増えると思った》
「名を呼ぶ声は、帰る道になる」
俺は杯の縁に手を置き、掌の輪を重ねた。
「静けさは要る。けれど、沈黙はいらない。
おまえが求めてきた静けさを、俺は“間”としてここに置く。
——“凪”。吹き荒れる風と風のあいだ、差を保ったまま息ができる『間』の名だ」
言って、自分の胸の奥で何かがほどけるのを感じた。
凪は、海の上だけの言葉じゃない。畑にも、街にも、人にも要る。
静けさと沈黙を分ける、やわらかな縁。
杯の内側で、薄い鈴のような音。
“願い”の声が、初めて名を繰り返した。
――《……なぎ》
マリアの祈りが、その名に拍を与える。
エリナが刃の腹で杯の縁を軽く撫で、残る角の縁を丸める。
エルドの網が世界を一拍支え、ラザロの号鐘が“返る”を合図する。
広場の人々が、その名を低く、そして次第に確かに呼んだ。
「凪……凪……」
黒石の杯は、内に“返り”を宿したまま静かになった。
静寂ではない。
呼吸の“間”を覚えた器の、静けさだ。
Ⅵ 受け渡し
王は杯に近づき、指で縁を撫でてから、両手で持ち上げた。
「王は、凪の名のもとに、杯を“渡盃”とする。満たす器ではなく、返す器。行って、戻ることを誓う」
ラザロの号鐘が一打、四隅が応じ、子どもたちの小さな手が綱に重なる。
人々は互いの名を呼び、泣き、笑い、息を合わせた。
広場に、均されない静けさ――“間”が生まれる。
その“間”の縁で、黒い影がひとつ、ふっと立ち上がった。
黒騎士。いや、殻だけになった影。
兜の奥は空洞で、胸にうすく輪が嵌め込まれている。
影は杯に一礼し、そして俺たちを見ずに、広場の端の子どもたち――ルカとミーナへ頭を下げた。
次の瞬間、影は風に解け、縁のどこにも残らなかった。
「……護り手に、なれたのかもしれない」
エリナが小さく呟き、刃を収めた。
俺は頷く。「名も役目も、押しつけない。——戻る先だけ、差し出す」
Ⅶ 勇者の告白、聖女の決意
式がいったん解かれ、人々がそれぞれの場所へ帰りはじめたとき、エルドが杯から視線を上げ、俺に近づいた。
「なあ、リオン」
「なんだ」
「お前を追放したときの俺は、“器”だった。差を受けるのが怖くて、均した。……今は、“網”でいい。畦の上で、たわみを一拍だけ支える」
言葉は短いが、重さは自分で持っていた。
俺は笑った。「じゃあ、たわみが増えたら呼ぶ。支えてくれ」
「ああ、必ず」
マリアが杯の縁に指を添え、凪の名を一度だけ口にした。
「わたくしは、器を捨てない。けれど、器を“渡す”道を選びます。教会の祈りを、道に戻す。……反発はあるでしょう。けれど、今日の列を見たら、もう後戻りはできません」
「戻るのは、行った分だけでいい」
俺は言う。「行って、戻る。——それだけ守れれば、畦は太る」
Ⅷ 畦をひらく
王は壇を降り、杯を抱えたまま広場の外縁へ向かった。
「王は杯を持って歩く。畦は、王の手だけでは引けぬ。人の列が要る」
その言葉に呼応するように、職人、兵士、司祭、商人、旅人がそれぞれの場所へ散り、細い線を結び始める。
港へ、聖堂へ、市場へ、王城へ――。
都市畦が、人の足で本当に“道”になっていく。
俺は帯の芯に触れ、村の若木の脈をもう一度確かめた。
遠く、変わらず、あたたかい返り。
“王都で行った分を、村へ戻す”道も、たしかに細く続いている。
そのとき、掌の輪が小さく熱くなり、耳の奥で薄い声が鳴った。
――《凪、覚えた。
わたしは、名なき願いであり、いまは“凪”。
均しは、縁を守る手になる。
痛みが溢れる夜には、一拍だけ“間”を置く。
そのあいだに、名を呼べ。
——行って、戻れ》
答えは要らなかった。
広場の風がやわらかくなり、噴水が二拍沈んで、二拍で戻る。
Ⅸ 余白に灯を
日の傾きとともに、渡盃の儀は静かに終わった。
人々は各々の“帰る先”へ歩き、誰かの名を口の中で繰り返しながら、角をぶつけず、角を隠さずに、すれ違っていく。
均されない静けさ――“間”が街に残った。
エリナが俺の袖を引いた。
「……帰ろう、村に」
「うん。畦は引きっぱなしにしない。見に行って、撫でて、戻す」
王は杯を抱えたまま頷く。「王もいつか、そなたの村に行く。王の足で“返り”を覚えるために」
ラザロは号鐘を肩に担ぎ、子どもたちを伴って鐘楼へ戻っていった。
マリアは聖歌隊に囲まれ、祈りの節の復習を始めている。
俺たちは広場を離れ、夕方の風に当たった。
空は村より少し霞んで見えるが、それでも星の予感を含んでいる。
掌の輪に親指を当てる。
脈が合う。
行って、戻る。
壊さないために。
歌と名前を、渡すために。
そのとき、遠い城門のほうで角笛がひとつ。
夜を連れてくる合図。
“凪”の夜だ。
明日また畦を撫でる余白だけを、やさしく残す夜。
――続く――