第14話 海の縁(ふち)、返りの縄
Ⅰ 出航の手
港の水面は、朝の光を砕いて白い綿にしていた。
帆柱が鳴り、縄が歌い、櫂の柄に人の手が並ぶ。王城から送られた親衛の小隊と水夫たちが、俺たちの船――三本マストの軽快な帆船に積み込まれていく。
「道は揃った」
エルドが短く言い、指で空に不可視の“網”の線を引く。「港の鐘、岬の灯、王城の杯、聖堂の噴水。全部、薄く繋いである。たわみは俺が一拍受け持つ」
ラザロは甲板の号鐘を叩き、子どもたちが描いた合図表を桁に結わえる。
「合図は三段。渡す、返す、止める。海でも街でも、やることは同じだ」
マリアは手すりに掌をあて、潮の脈を読むように目を閉じた。
「満ち引きの拍は六。祈りを“道の言葉”にして六拍ごとに節を作ります」
エリナは舷に座し、波の角を試すように刃の腹で海風を撫でる。
「斬らない。撫でて落とす。海でも変わらない」
俺は帯の芯に触れた。村の若木の返り、王の指環の返り、聖堂と鐘楼の返り――それらが一本の縄になって胸に下がっている。
行って、戻る。壊さないために。
港の鐘が一打、落ちた。
帆が風をつかみ、船は海へ滑り出す。
Ⅱ 海霧の輪
岬を回ったところで、風が急に“均された”。
さっきまで不揃いに踊っていた波の頭が、まるで誰かが手を当てて撫でつけたみたいに、同じ高さと間隔で並び始める。
遠く、海霧が丸く濃くなり、その縁が撫でられた茶碗のように滑らかに歪む。
「——口だ」
エリナが立ち上がる。
霧の輪は静かで、静かすぎた。鳥も魚も声を失い、甲板の足音だけが異様に軽く響く。
“願い”の声が、水の下から鐘の残響みたいに上がってきた。
――《差は痛み。潮はさらい、等しさは癒す。
歌は海に溶け、静けさは救い》
ラザロが舌打ちし、号鐘の綱を引く。「救いはうるさいものだ。静まり返った救いは、ただの死だ」
エルドが舵手に指で合図を出す。「輪の外縁を八の字に回る。波の返りを半拍ずらして、網を張る」
マリアの声が低く乗る。
「六拍、二拍置き。節は二、四、六」
俺は帯を投げ、舷から海面へ垂らす。撚りをほどいて一度“糸”に戻し、船の軌跡と潮の返りを拾って、見えない畦を海の上に描いていく。
船の後ろに白い尾が伸び、尾と尾が交わったところに小さな節が生まれる。
畑で水を導いたのと同じ――いや、もっと気まぐれで、息の深い仕事だ。
Ⅲ 海の畦を編む
船は霧の輪を大きく舐めるように走り、次第に四隅に小舟が散っていく。
港から出た二隻の小艇が外周で待機し、渡し手たちが綱を受け、名を呼ぶ。
「ヨナ、ミーナ、ラザロ、王城、若木!」
名は差だ。差は流れの勾配だ。
呼ばれた名が列になり、波の上に“人の縁”を作る。
「いくぞ」
ラザロの号鐘。
ゴォン——
港の鐘が遠く応え、街の四隅がさらに細く続く。
エルドの“網”が海面一帯に薄く張られ、たわみを一拍だけ保持する。
マリアの祈りが潮の拍に合わせて落ち、節と節に撫でしろを与える。
エリナは霧の輪の縁を刃の腹でそっと撫で、ほんのひとかけ“角”を落とす。
海面に、小さな“返り”が生まれた。
霧の縁に浅い溝ができ、黒い気配がそこへ“先に”滑り込む。
戻る道が先にあると、均しは迷い、ほどけやすい。
だが、輪は“舌”を出した。
水の下から、鉛の色の舌。
船腹に絡みつき、歌の芯を舐め取って、静けさに押し込もうとする。
「舌の根、角が立つ!」
俺が叫ぶと、エリナが舷から身を乗り出し、刃先を水面すれすれに滑らせた。
刃は斬らない。撫でる。
薄氷を撫でて溶かすみたいに、舌の根の小さな角がひと欠け、ふた欠けと落ちる。
同時に、俺は帯の撚りを逆回転させ、行き過ぎる力を受けて“別の道へ返す要”を作った。
王城の杯で学んだ“渡盃”の手だ。
船の舷から舷へ、綱の上で返りが走り、霧の口の中で風が道を覚える。
Ⅳ 歌を取り返す
それでも輪は、等しさを押し広げてくる。
甲板の上で、水夫たちの口が閉じられそうになったとき、ラザロが怒鳴った。
「歌え! 手を使う前に、声を渡せ!」
最初は掠れた声だった。
やがて一人、また一人と、古い舟歌が甲板に乗った。
オールの数、帆の角度、星の名。
「今夜の風は東、帰りの風は朝」。
歌は差だ。差は列だ。
名と歌が絡み、海の上に“人の畦”が太っていく。
マリアの祈りが歌に混じる。
器に溜めない祈り。道で返す祈り。
「旅の者に帰路を」「港に灯」「村にパンと水」。
祈りが差を拾い、均しの膜の角を柔らかく撫で落としていく。
エルドの網が揺れる。「もう一息。霧の縁が薄い」
俺は帯の要を動かし、返りをさらに太くした。
村の若木の脈が遠く温い。王の指環が冷たく確かな返りを増す。
港の鐘が二打、三打。
輪の縁が、白く欠けた。
Ⅴ 縁守の輪
霧の内側で、黒い影がひとつ、起き上がった。
黒騎士——に似ている。だが、海の影は名前を持たない。
人の“似姿”で、差の少ない形を選んで立ち上がっただけだ。
「来る」
エリナが構え、刃を水平に。
影は舷へ手を伸ばす。その手は、誰の手でも、誰の手でもない。
俺は帯をその手と舷の間に滑らせ、撫でて“返りの道”に変えた。
掴まれた力は、掴み返すより、返した方が早い。
その時、舷の外に小舟が一つ滑り込んだ。
港の鐘手見習い――ルカとミーナが、ラザロの命を背に乗り込んで来ていた。
「ここで渡します!」
幼い声に、俺は一瞬、心臓が冷えるのを感じたが、すぐに頷いた。
「節と節の間だ。怖かったら、名前を言え。自分の名を」
ふたりは綱に小さな掌を添え、震えながらも名を言った。
「ルカ」「ミーナ」
名は差だ。差は返りだ。
小さな声が、海の畦にもう一本、人の“縁”を足した。
ラザロが号鐘を一打。
港が応え、街が返る。
縁は、子どもの手まで届いた。
Ⅵ 角、最後のひとかけ
霧の輪が、最後の抵抗みたいに口をすぼめた。
水面の下で舌がひとつ、わずかに“角”を立てる。
エルドが一拍、世界を固定する。
マリアが痛みを撫でる。
俺は要を緩め、別の要へ重さを回す。
エリナが刃先で、その角をそっと掬った。
コト、と小石が茶碗の外に落ちるみたいな音。
霧の輪は、音もなく崩れた。
静けさが“沈黙”でなく“間”に戻り、波がそれぞれの高さで笑う。
海は、返った。
Ⅶ 願いの余韻
舷に凭れて息を整えたとき、潮の匂いに混じって、遠い声がした。
怒りでも命令でもない、誰かの独白に近い、薄い声。
――《昔、飢饉の年があった。
子が泣く。母が泣く。
誰の泣き声も等しく薄まれば、痛みは薄まると、
わたしは思った。
わたしは“願い”。
誰の名前も、持たない》
胸の奥が、痛くなった。
等しさは、たしかに慰めに似ている。
でも、誰の名も呼ばれない慰めは、帰るところがない。
「……名前を返すよ」
俺は掌の輪を海風に晒し、低く言った。
「差を残したまま、渡す。行って、戻る。戻る道を、畦にする。
それでしか、俺は救えない」
答えはなかった。
ただ、海面いっぱいに細かな皺が走り、波がそれぞれの大きさで寄せて来た。
歌がふたたび甲板に戻り、水夫たちが笑う。
Ⅷ 帰港、そして
港の鐘が、勝利ではなく“約束”の合図を打つ。
俺たちは《かえり》を港へ入れ、人々の手に綱を渡した。
王城の旗が遠くで揺れ、聖堂の噴水が二拍沈んで、二拍で戻る。
村の若木の葉が、遠い風に小さく鳴いた――気がした。
「七つ、閉じた」
エルドが海を振り返り、短く言った。
マリアは安堵の笑みを浮かべ、ラザロは号鐘にそっと手を置く。
エリナが俺の肩を軽く叩いた。「帰ろう」
掌の輪は、薄く熱を残していた。
“無”の火傷は浅い。けれど、確かに刻まれている。
傷は、差だ。差は、流れの勾配だ。
それなら、この傷もまた、誰かの道を撫でるために使える。
岸に足をつけた時、王城の方角から早馬が現れた。
封蝋の紋、王家の輪。
文面は短い。
『帰還後、王都広場にて“渡盃の儀”を行う。
畦を人に返す式だ。
——そして、輪の継承者へ。
王は、“名なき願い”に名を与える術を問いたい』
名を、与える。
名を持たない願いに、帰る場所を。
俺は帯の芯をそっと握り、遠い村の風を胸に吸い込んだ。
行って、戻る。
壊さないために。
歌と名前を、渡すために。
――続く――