第13話 根の間(ねのま)、均杯(きんぱい)
Ⅰ 王城へ
王城の石は、昼の熱を手のひらの奥で冷たく返す。
高い櫓門をくぐると、庭の砂利はよく均されていたが、均し方が違う——人の足で“返って”いない。整いすぎた路面は、行きと戻りの癖を持たない。
「王は“縁を問う”と言った」
エルドが短く言い、俺とエリナ、マリア、ラザロと目を合わせる。
掌の輪に親指をあてると、村の若木からの返りが遠く確かに答えた。行って、戻る。必ず。
玉座の間に通される前、年老いた侍従が低く頭を下げる。
「陛下は地下“根の間”にてお待ちであらせられる。道中、声を荒げぬこと——ここは聖域である」
石段を降りるたび、空気の温度がひとつずつ落ち、音が吸い込まれていく。
やがて扉が開き、地下の大空洞が現れた。
Ⅱ 王と根の間
根の間は、城の基礎そのものだった。
森で見た古道の口と同じ“輪の欠片”が、巨石の柱と柱の間に埋まり、床には七本の浅い溝が星のように広がって中央に集まっている。
中央の台座に、黒石の杯——“均杯”。
杯の外周には小さな角が七つ、刃物で削ったように残っていた。
王は杯の向こう側に立っていた。齢は重いが背筋はまっすぐで、瞳は深い井戸の底のように静かだった。
彼は挨拶もなく、俺たちを見渡して口を開く。
「四つ、閉じたと聞く。聖堂の口も、鐘の影も、鉄の海も。……均されずに戻った音を、今朝、城の石が覚えておった」
ラザロが一歩進み、短く頭を垂れる。
「渡しは生きています、陛下」
「ならば問おう」
王は台座の杯に指を置く。
「この杯は、王統が秩序を保つために使ってきた“器”だ。祈りの差をいったんここに集め、静め、国の端へ薄くわける。暴乱は収まり、飢饉の叫びも遠のく。
——だが、畦を殺すかもしれぬと、おぬしらは言う。『縁』は器でなく、人の列にあると」
聖女マリアが白い衣の裾を整え、はっきりと頷いた。
「祈りは溜めて捧げるもの——わたくしもそう学びました。けれど、器が満ちてこぼれる時、畦が死ぬ。わたくしは今日、道にも祈りが宿ると知りました」
王の視線が俺に移る。
「均しの者、リオン。そなたの“均し”は、器を不要とするか?」
俺は首を振る。
「器は悪ではありません。水を汲むために杯は要る。……ただ、この杯は“戻り”の道を持たない。集めて溜めて、薄めて分ける。行って、帰らない——だから畦が痩せる」
薄く沈黙。
王の声は、古い石の鳴りのように低かった。
「ならば、見せよ。そなたらの“縁”。この根の間で」
エルドが一礼し、短く号令する。
「配置——俺は外周の“網”。マリア、節。エリナ、角。ラザロ、渡し。リオンは——杯と城の『返り』に手を」
俺は頷き、帯の芯——村へ続く返りに触れながら、床の七本の溝に膝をついた。
一本、一本、指で撫でる。
それぞれの溝は城の七つの“根”に繋がっている——門、井戸、広場、兵営、倉、塔、そして王座。
どれも“行き”の道が太く、“戻り”は痩せていた。
Ⅲ 均杯の口
杯の縁が、ひとりでに汗をかいたように濡れ、わずかに脈打つ。
掌の輪が、冷たい指先で撫でられたように疼いた。
願いの声が、今度は石の中から直接響く。
――《器に集めよ。差は痛み。均せば安らぎ。
七つの口は、均杯でひとつに》
ラザロが綱を肩にかけ直し、吐き捨てるように笑った。
「安らぎが欲しけりゃ、眠ればいい。起きてる世界に、静寂は要らねえ」
王は眉ひとつ動かさず杯の脇から退いた。
「手を出せ。王は見届ける。……ただし、城を壊すなら、その時は剣を執る」
エルドが低く応える。「壊さない。畦は壊さないためにある」
俺は帯を杯の台座に回し、撚りをほどいて一度“糸”に戻した。
糸は城の石の目に吸い込まれ、ふっと消える。
消えたのではない。隙間に“行って”、薄い返りを連れて“戻って”きた。
掌の輪が、少しだけ温かくなる。
「マリア、節に“撫で”で」
「はい」
聖女の声が、地下の空気を丸く撫でる。
器に集まりかけた祈りがほどけ、道の言葉に変わって流れ出す。
エルドが外周に網を走らせ、一拍ずつ城のたわみを支える。
エリナは杯の七つの“角”の前に立ち、刃を下ろしたまま、手首だけで角度を探った。
「角の出る順番、見える?」
「三、五、一、二、四、七、六。——そういう“癖”」
俺の返事に、エリナの口端がわずかに上がる。「ありがとう」
ラザロが低く合図を声にした。
「渡すぞ。——今だ」
鐘はない。それでも、彼の声は鐘になった。
骨の中を通る音。
俺はその声に帯を添え、行って戻る道を杯の縁に掛ける。
杯の第一の角が立つ——エリナが刃先で撫で、角が粉になる。
粉は帯の道に乗り、外へ流れる。
第二の角が立つ——マリアがその痛みを撫で、網が一拍固定する。
第三、第四——角は次々と粉になり、返りに混じって行って戻る。
そして第五——
杯の“口”そのものが、内側からこちらへ舌を伸ばした。
均しの舌。
祈りの差を舐め取り、甘い無音で包む舌。
掌の輪に、粟立つような“無”の冷たさ。
俺は撚りを逆回転させ、畦の“要”を移し替えた。
行き過ぎるものをいったん受け、別の道へ“返す”要。
畑で洪水をいなすのと同じ、当たり前の作業。
「角!」
エルドの網が重力を一拍止め、エリナの刃が舌の根の小さな角を撫で、マリアの声が舌の痛みを撫でる。
ラザロの「渡せ」の一喝で、人の気配が城の上から降りてきた——衛士、書記、台所の者、庭師、火の番。
名前が、列になって降りる。
それは王城という“器”に溜まっていた差が、自分の居場所へ“戻る”道になった。
杯の舌は、音もなくしぼみ、縁の角がひとつ、さらにひとつと落ちていく。
七つ目が、微かな抵抗を残して粉になり、返りに混じった。
均杯は、静かになった。
静寂ではない。
呼吸を覚えた器の、静けさだった。
Ⅳ 王の問い
長い沈黙。
王は杯に近づき、指で縁を一度だけ撫でた。
黒石は冷たく、しかし、内側にわずかな“返り”を宿している。
器が、道を覚え始めていた。
「……王が盃を口にするのは、王統の“確認”の儀だ。
わしの祖、曾祖も、杯で祈りを“均して”きた。民の苦悩は薄まったが、歌も薄まった。
今日、わしは初めて、歌が戻るのを聞いた」
王は顔を上げ、言葉を継ぐ。
「問おう。均しの者。器は捨てるべきか。縁は、人だけに任せるべきか」
俺は首を横に振った。
「器は『渡す』ために使えばいい。
満たして均すのではなく、“いったん受けて、返す”ために。
杯を“渡盃”にする。……畦に口を、口に畦を」
王の口元が、ほとんど見えないほどわずかに緩んだ。
「難しいことを、当たり前のように言う」
彼は振り返り、玉座の間から従者を呼ぶ。「記す者を。儀の書式を改める。王の杯は“返り”を誓うものとする」
マリアが安堵の息をつき、胸の輪に指を添える。
エルドは肩の力を抜き、ラザロは綱を軽く肩に打ち付けた。
エリナが俺の横に立ち、肘でそっと小突く。「やった」
その時——
根の間の奥、柱の影で、乾いた音。
石の皿が一枚、ゆっくりと回るような。
願いの声が、細く、遠く、しかし確かに響いた。
――《器が道を覚えた。
ならば、最後の口は“道”の果てで開く。
海の縁。
潮は差をさらい、均しは歌を飲む。
七つ目は、陸の外》
掌の輪が、未知の塩の匂いを連れて熱くなった。
村の若木の返りが、遠く揺れる。
行って、戻る。
戻る道を、海の上に引けるのか。
Ⅴ 王の答え、勇者の決断
王は目を細め、深く頷いた。
「海か。王国の港、外洋の岬。……王は船を出す権を持つ」
エルドが膝をつき、短く言う。「遠征の名において、俺が指揮を執る。都市畦はラザロに任せる。聖堂と鐘楼は“渡す”を続けてくれ」
ラザロが笑う。「任せろ。列は人だ。子どもを二人、もう鐘下に立たせた」
マリアは王に向き直る。「わたくしは海でも節に立つ。祈りを器にせず、道にすることを、もう一度学び直したい」
王は一人ひとりを見渡し、最後に俺を見た。
「均しの者。そなたの“返り”は、村の若木に繋がれておるのだろう」
「はい」
「ならば、王も一本、結ばせてくれ」
王は指から小さな輪の指環を外し、俺の帯の芯に触れさせた。
石の冷たさと、人の脈の温かさが交わる。
返りの糸が、もう一本、静かに増えた。
「王もまた、人の列に入る」
王は杯に背を向け、根の間の扉を開かせた。
「行け。海の縁へ。——そして、戻れ」
Ⅵ 出航の畦
地上に出ると、夕陽が城壁を赤く染め、港の方角から帆の影が伸びていた。
桟橋では水夫たちが縄を投げ合い、櫂の音が列を作る。
ラザロが港の鐘手に手短に指示を出し、鐘の合図表の端を破って渡す。
エルドは王の親衛の一部を海へ振り向け、補給の道を列に編む。
マリアは潮の満ち引きに祈りの拍を合わせ、節がどこに生まれるかを数える。
エリナは甲板で刃を寝かせ、海風の角を試しに撫でる。
俺は桟橋の木目に掌を置いた。
木は陸で育ち、海で働く。行って、戻るを生まれつき知っている。
帯の芯に、村の若木、王の指環、聖堂の噴水、鐘楼の綱——それぞれの返りが重なった。
人の列が、街の列が、王の列が、一本の畦になっていく。
その時、沖の方で、海霧が丸く濃くなった。
霧の縁が、ゆっくりと撫でられたみたいに丸く、そして歪んだ。
輪。
海の口が、遠く、静かに唇を開く。
ラザロが港の鐘を一打。
ゴォン——
街の四隅が応え、聖堂の噴水が一拍沈んで、すぐ戻る。
王城の根の間の杯が、かすかに“返る”。
村の若木の葉が、遠い風で鳴る——気がした。
エルドが振り返り、短く笑う。
「道はできた。——行こう、リオン」
甲板がきしみ、帆が鳴る。
海の畦を引くなんて無茶だ、と心のどこかが震えながら、俺は掌の輪に親指を押しあてた。
脈が合う。
海にも“返り”はある。潮は満ち、引く。
畦は、きっと引ける。
行って、戻る。
壊さないために。
そして、歌を海の風に戻すために——。
――続く――