第12話 聖堂の口、都市を編む
Ⅰ 準備という祈り
祭月は満ちて、王都の空は青白い輪郭で縁取られていた。
俺たちは三日を費やして、聖堂中庭の下――貯水槽に眠る「口」へ備えた。
鐘守ラザロは鐘楼と四隅の小鐘を結ぶ合図表を作り、鐘手たちに渡す。
エリナは巡礼路の要所に立つ衛士へ「角の落とし方」を教え、刃で斬らずに“撫でて”流す稽古をつけた。
エルドは王城の指揮台から市門まで、薄い「網」を張る手順を何度も通し、たわみを一拍だけ保持する練習を繰り返す。
聖女マリアは聖歌隊に節の位置を説明し、旋律を器の祈りから「道の言葉」に少しずつ変えていった。
ラザロに連れられて鐘楼に来た子ども――ルカとミーナは、綱に触れて「渡す」呼吸を覚えた。行って、戻る。息のなかに列をつくる。
俺は都市畦の下書きを、誰にもわからない薄さで敷いた。
巡礼路は畝。噴水は返り。門は節。
路地の名を口の中で唱え、足で確かめ、掌の輪で脈を拾う。
“人の流れで編む”――畦人断片に刻まれていた通りだ。
Ⅱ 祭礼の朝、祈りが集まる
祭礼当日の朝。
聖堂前広場は、白い帯と花輪で彩られ、人、人、人。
日の角度が鐘楼の銅を柔らかく照らし、噴水の水は細かい光の粒に砕けて舞った。
俺は中庭の縁で、帯の芯――村の若木へつないだ「返り」の糸に触れる。遠くあたたかな脈が返ってくる。
エリナは北側の回廊上に、マリアは聖堂扉前の節に、エルドは指揮台に、ラザロは鐘楼に、それぞれ位置についた。
マリアが俺を振り向く。
「……恐れは消えません。けれど、それでも行きます」
「折れそうになったら言ってくれ。角は俺が落とす」
彼女は小さく息を笑いに変え、白い手を胸に当てた。
Ⅲ 開く
最初の聖歌が、石壁に反射して高く立ち上がった、その時だ。
貯水槽の蓋板の内側で、鈍い音。
噴水の水が一拍遅れて沈み、戻らない。
空気がひやりと薄くなり、広場のざわめきが、ひとつの無音に“均され”かけて――。
「始める!」
エルドの号令に、ラザロの鐘が一打、落ちた。
ゴォン――
音が広場の四隅へ走り、巡礼路の角に節が立つ。
俺は帯を投げ、畦の要へ指を添えた。
行きの道、戻りの道。
祈りが押し寄せる手前に、先に“戻る”道を引く。
噴水の水面がもう一度沈み、今度は浅く戻った。返りが生まれたのだ。
だが、すぐに黒い膜が水の内側に張り始める。
祈りの差――声の高さ、言葉の重さ、涙の塩――その全部を、均そうとする膜。
広場の空気が均質な温度に近づき、ざわめきの粒が丸く削がれていく。
「マリア!」
「はい――“撫で”で行きます」
聖女の声が節の上に落ち、祈りの角を丸く撫でる。
それでも黒は、均しをやめない。
「ラザロ、二打、返り強め!」
鐘が二度、異なる間で鳴る。
広場の四隅が呼応し、道は列になり、列は畦になる。
人々の足音が「戻る」ことを思い出した。
Ⅳ 都市畦
俺は都市の骨格に沿って畦を引く。
南中通り、茜の坂、粉屋小路、蝋燭横丁――
呼吸で名前を連ね、帯で線を加え、節に印を置く。
エルドの「網」が、一拍ずつ都市全体のたわみを支える。
エリナは回廊から下を見据え、黒が立てる“角”の前に滑り込み、刃でやさしく撫でて落とす。
祈りは器ではなく道へ変わり、歌は宙で均されずに“返る”ことを覚える。
黒い膜が噴水の縁で唇をつくった。
ここが「口」――。
水がふっと止まり、聖歌が一瞬、無風の砂地に落ちるみたいに沈んだ。
「角、立つぞ」
「見る!」
エリナの刃がきらりと走り、唇の縁ごく小さな“角”を撫でた。
同時に俺は帯の撚りを逆回転させ、戻る道を先に深くする。
エルドの網が世界を一拍固定し、マリアの祈りが痛みを撫でる。
黒い角は粉になって落ち、返りの道に混じって、夜のどこかへ消えた。
だが、口は閉じない。
膜が次の角を生み、次の均しを仕掛けてくる。
「足りない――“人の縁”が」
俺は広場を見渡し、声を張った。
「名前を呼んでくれ! あなたの、誰かの。あなたが今日、守りたい名を!」
一瞬の戸惑い。
やがて、ぽつ、ぽつ、と名が落ちた。
「母のエマ」「鍛冶の親方」「ルカとミーナ」「旅に出た弟」「畑の隣のミラ婆さま」……
名は差だ。差は流れの勾配だ。
呼ばれた名が列になり、見えない手をつなぎ、畦の“縁守”になっていく。
ラザロが上から怒鳴った。
「いいぞ! 渡せ! 声を渡せ!」
鐘が三打、四打。
音が名を拾い、名が音に返り、列は手になった。
黒い膜は、一つひとつの名の“撫でしろ”に引き延ばされ、角が立ちにくくなる。
Ⅴ 折れと撫で
そのとき、祈りの芯が、急に硬くなった。
マリアの声が一瞬、器に戻りかけたのだ。
広場の空気がきしむ。
彼女の指がわずかに震え、唇が白くなった。
「マリア!」
「……すみません、怖さが――折れるかも」
「折れたら、落とす。任せてくれ」
俺は走り、彼女の節の前に膝をついた。
掌の輪を、彼女の祈りの流れにそっと重ねる。
硬いところに“撫でしろ”を作る――ただそれだけ。
彼女の声に、人の名が混じり始めた。
「病床の幼子に」「旅の民に」「この街に宿を求めた者に」「孤児院のパンが明日も焼けますように」
祈りが差を取り戻し、道に戻る。
エリナがそれを守るように角を落とし、エルドがそれを支えるように網を張る。
ラザロが名を渡し、鐘が列を編む。
「口」がひとつ、深く息を吸い、吐いた。
噴水の水が一拍遅れて――今度は必ず――戻ってくる。
Ⅵ 閉じる手順
「いま!」
俺は帯の要を緩め、別の要に重さを回す。
畦の節が低く鳴り、返りが太る。
エリナの刃が縁の“角”を優しく掬い、マリアの声が痛みを撫で、エルドの網が全体を一拍止める。
ラザロの鐘が合図を打ち、名の列が一斉に呼吸した。
黒い唇は、音もなく崩れた。
水面に浮いた薄い煤が、ひとしずくの露のように弾けて消える。
噴水が高く上がり、白い光が降った。
広場に歓声が起き、泣き笑いが混じる。
聖歌がふたたび立ち上がり、今度は均されずに、個々の声の差を残したまま空へ昇っていった。
俺はそこで初めて手の痺れに気づいた。
指先に「無」の火傷が薄く残っている。
痛みは小さい。けれど、輪の奥は、今日で少し古くなった気がした。
Ⅶ 願いの言葉
人々が喜びに包まれるその隅で、冷たい囁きが、音としてはっきり聞こえた。
水の底から、古い鐘の残響のように。
――《四つ、閉じた。
四つ目は剣の根。王の石の下。
均杯——差を飲み、均す器。
それは昔、畦人が渡した手を、器に変えた》
均杯。
王家の地下に、祈りを“集め直す”器……。
畦を器へ変える――畦人の系譜の“裏切り”の記録とつながる。
エルドが低く息を吐いた。
「……王城直下の“根の間”。王統にしか開けない扉だ」
マリアが首飾りの輪を握る。
「器は罪ではない。けれど、畦を殺す器は、罪になり得る」
ラザロが綱を肩に担ぎ直した。
「渡し場が要る。城にも。人の手の列を通せ」
Ⅷ 城への道
その日の夕刻、王城から勅使が来た。
封蝋に王家の聖紋――太陽を抱く聖剣と、細い輪。
文面は簡潔だった。
『勇者エルド、聖女マリア、均しの者リオン、剣士エリナ、鐘守ラザロ。
王城地下“根の間”へ招く。
祭の終わる前に来られよ。王は縁を問う』
広場のざわめきが少し沈んだ。
俺は帯の芯――村の若木の返りを確かめる。
遠いけれど、確かな脈。
行って、戻る。必ず。
エリナが俺の手を握った。
「怖い?」
「怖い。でも、畦は引ける」
「うん。あなたが引いて、私が角を落として、皆で渡す」
エルドは短く頷いた。
「行こう。王もまた、人だ。人なら、列に入れる」
聖女マリアは静かに祈りを結び、その祈りを“道”へほどいた。
ラザロは鐘に鍵をかけ、綱を肩に載せる。
「渡しは任せとけ」
王都の屋根に、祭の灯りがまたたいた。
七つの扉、ひとつの縁。
閉じたのは四つ。
残り三つ。そのうちの一つは、王の足もと。
俺たちは城へ向かう。
畦は人で編む。
差は歌で渡す。
行って、戻る。
壊さないために――そして、王都の心臓に残った“器の影”を、道に戻すために。
――続く――