第11話 鐘守の縁
Ⅰ 鐘楼へ
王都の夜は、いつもなら均整のとれた鐘で刻まれる。
だが今夜の鐘は、一度だけ、規則を外した。澄んだ音の中心に、薄い“歪み”が混じっていた。返りが弱い。誰かが、どこかで、音の畦を踏み外した。
「急ぐ」
エルドの短い号令に、俺とエリナ、マリアは聖堂の側面にそびえる鐘楼へ駆け込んだ。螺旋階段は冷たい石で、足音が渦を描くように上っていく。
途中、壁の継ぎ目で掌を滑らせ、呼吸の返りを拾う。上階へ向かう風が、いつもより浅い。音が“出て戻る”道が痩せている。
最後の踊り場を曲がると、黒い梁と青銅の鐘が闇に浮かび上がった。
縄の匂い、鉄の匂い、冬のように冷たい風。
そこに、ひとりの男が立っていた。
Ⅱ 鐘守ラザロ
痩せているが、骨は太い。縄で擦れた痕が掌から前腕にかけて古い地図のように刻まれている。
鐘守ラザロ——エルドが言っていた男だ。
彼は片手で綱を握り、もう片手で鐘の舌を押し戻していた。舌の根元に、黒い煤の膜が張り付いている。打てば鳴るはずの金属が、鳴らない。
「誰だ」
短い声。だが、その声そのものが“渡し”の脈を持っていた。
エルドが名乗ると、ラザロは頷き、顎で黒い煤を示した。
「さっきからこれだ。打つたびに、音の芯に冷たい手がのしかかってくる。奴らは鐘を“均して”黙らせようとしている」
奴ら——“願い”の側。
網のように広がる黒の均しは、最初に音と風を狙う。流れを止めれば、畦は勝手に崩れるからだ。
「触る」
俺は舌の付け根に指先を伸ばした。黒い膜は見た目ほど湿っていない。乾いて、軽い。
帯の芯に触れ、撚りをわずかに緩めて押し当てる。
……指先が“無”に舐められ、体温が一枚剥がされる感覚。
押し返す道を用意しなければ、帯ごと吸われる。
「マリア、祈りを“撫で”で。硬くさせないで」
「わかりました」
彼女は胸元の輪に指を添え、低く旋律を敷く。祈りの言葉が石と金属の境目をまるくし、角を立たせない。
「エリナ、梁の上、二点。跳べる?」
「跳べる。あなたの均しがあれば」
エリナは身軽に梁へ上がり、二箇所で足場を作る。そこは鐘の“返り”が強くなる角だ。
エルドは床板に網を走らせ、鐘全体のたわみを一瞬だけ保持できる準備を整える。
「ラザロさん」
俺は鐘守を見た。
「あなたの手は“渡せる”。この綱で、音を街へ渡し、街から戻してください。行って、戻る。あなたの脈を、鐘に通す」
ラザロは短く笑い、綱を腰に巻いた。
「毎夜やってることだ。やり方を少し変えりゃいい」
Ⅲ 音の畦
俺は帯を鐘の舌と梁の間に通し、撚りを“行って戻る”に組み替える。
畑で水の道をつくるのと同じだ。
舌から鐘内を巡り、梁へ、梁から石へ、石から階段へ……そして広場へ。
人の足音、巡礼のざわめき、噴水の水音が“返り”の目印になる。
「いく」
ラザロが綱を引く。
カン——と鐘が鳴る。だが、芯はまだ薄い。
黒い膜が舌の根元で震え、音を均そうとする。
俺は帯の節を叩いて、返りを増やす。
エリナが梁から梁へと軽く走り、左右非対称のわずかな揺れを作る。
エルドの網が鐘の外郭を固定し、マリアの声が音の角を撫で続ける。
二打目。
カァン——
芯が太った。
鐘の音が回廊を巡り、広場に抜け、屋根と屋根の間で跳ね返り、鐘楼へ戻ってくる。
戻ってきた音は、黒い膜の上を通り過ぎる“道”になった。
膜は道を嫌い、剥がれて、帯の撚りに絡む。
絡みは、向こうの“均し”を無理にほどかず、ただ方向を変えて空へ逃がす。
三打目。
カァァン——
音が街を一巡し、四隅の小鐘が呼応した。
南門、砂場の工房、北の屑鉄溜まり、そして聖堂前——
音が列になり、列が畦になる。
ラザロの手が、綱の重さを人間の重さに変えて渡していく。
「もうひとつ、角を落とす」
俺が言うと、エリナは梁の端から垂直に落ち、膝で弾んで刃先を舌の根に当てた。
刃では斬らない。撫でる。
撫でられた黒は、ひとかけ、粉となってはがれ、網へ、帯へ、そして夜空へ流れた。
四打目。
カァァァン——
鐘楼が一瞬、軽くなる。
音が“戻れる”ようになったとき、建物は軽くなる。
俺の掌の輪が熱を帯び、村の若木からの返りの糸が、遠く、かすかに鳴いた。
Ⅳ 縁守の誓い
「……やるじゃねえか、均しの若造」
ラザロが綱を持ち直し、笑った。
「だが、まだ“口”は閉まってねえ。鐘の影に、もうひとつ唇がある」
見ると、鐘と梁の隙間、暗がりの奥に薄い輪が潜んでいた。
鐘の音が通るたび、輪は少しずつ厚みを増す。
音を“食って”育つ口だ。これを先に潰す。
「渡すのは俺がやる」
ラザロが綱を自分の腰に固く結び、もう一度、鐘に向き直った。
息を吸い、吐く。その呼吸は、街路の名前を列挙するように、道の連なりを声にした。
「南中通り、茜の坂、粉屋小路、蝋燭横丁、鐘守坂……」
声が、線になって鐘の内側を走る。
俺は帯でその線を拾い、節に印をつけた。
マリアの祈りが節の上に薄く降り、エルドの網がたわみを支え、エリナが角の前に立つ。
「この一打で、口を“返す”。——いくぞ」
ラザロが綱を引いた。
カァァァァン——!
鐘の鳴りは夜を貫き、輪の縁は一瞬、白く欠けた。
俺は帯の撚りを逆転させ、戻る道を“先に”開く。
輪は驚き、逃げようとして、用意しておいた道に滑り込む。
エリナが刃先で縁を撫で、角を落とす。
マリアの声が角の痛みを撫で、エルドの網がその瞬間だけ世界を固定する。
黒い輪は、鐘の影から剥がれ落ち、床板で小さくひび割れて、消えた。
鐘がまた軽くなる。
夜風が鐘楼を通り抜け、その風に街の灯りが揺れる。
ラザロは綱から手を放し、深く息を吐いた。
「……渡しは俺の役目だ。あんたらが畦を引くなら、俺は縁を守る。“縁守”ってやつを引き受ける」
掌を差し出す。その手は縄の傷でざらついていたが、温かかった。
俺はその手を握り返す。
「頼む。列は手だ。手は人だ。人が縁になる」
ラザロは頷き、梁に手を置いた。
「鐘は街の手だ。毎夜、風と人の声を渡す。——あの黒い“均し”は、渡し方を知らねえ。だから、渡してやればいい。来た分だけ、返す」
Ⅴ 願いの影
鐘楼の下から、足音が上がってきた。
駆け込んできた若い鐘手が息を切らして言う。
「北の屑鉄溜まりが、唸ってます! 鉄屑の山全体が、うご、動いてるって!」
俺たちは顔を見合わせた。
さっき、四隅のひとつとして呼応した場所だ。音の列が通った先で、別の「口」が目を覚ましたのだろう。
鐘楼を降りる途中、俺の掌の輪が、低く、遠く、古い鐘のように鳴った。
“願い”の声が、今度は音として聞こえる。
――《三つは息を合わせよ。四つ目が歌を奪う》
嫌な予感が背を走る。
歌——人の差を最もよく映すもの。鉄屑の山で歌が奪われれば、働き場は無音の均しに飲まれる。
エルドが短く言う。「行く。北だ」
マリアが頷く。「祈りを“節”に変えます」
エリナは剣を握り直し、俺は帯の芯に指をかけた。
ラザロが鐘楼の入口で振り返る。
「鐘は刻む。列を作る。——合図は俺が出す」
外へ出ると、王都の屋根が風にざわめいた。
遠い北の空が、くぐもった唸りで震えている。
金属が擦れ合い、崩れ、また組み上がるような音。
そこから、細かな鉄の粉が、夜に雪のように舞っていた。
Ⅵ 鉄の海
屑鉄溜まりは、昼間は鍛冶場の残り火の匂いで満ちているが、今は冷たく、黒い。
月の光を吸った鉄の丘が、うねりながら形を変え、騎士の肩、刃、兜、鎖……無数の“形の名残”を、寄せては返す波のように作っては壊している。
鉄片の一枚一枚に、人の汗と叫びの跡が残っていた。
それらが混ぜられ、均され、歌を奪われようとしている。
「畦を引く。——小さく、しかし連ねて大きく」
俺は地面に膝をつき、屑鉄の間に畦図を刻んだ。
エリナは波の手前に立ち、刃で寄せてくる“形”の角を落とす。
マリアは祈りを線にして地表に這わせ、節を生む。
エルドは網を広く薄くかけ、全体のたわみを支える。
ラザロは遠く鐘楼の方角へ顔を向け、指を折る。
「三、二、一——」
ゴォン——
鐘が一打、遠くで鳴った。
遅れて、街の四隅が応じる。
音が列を成し、鉄の海の上に見えない橋が渡る。
俺は帯でその橋に“戻り”を与える。
鉄片の波が橋の下をくぐるたび、少しずつ力を失い、角を落とし、歌の残りかすを吐き出す。
波の中心、鉄が集まって騎士の姿をこしらえた。
黒い鎧。
だが、これまでの黒騎士と違う。
輪郭が粗い。人の“名”を持たない。
ただ“均し”の意思を象っているだけだ。
「退け」
エリナが踏み込み、刃を横に払う。
鎧の“肩”が音もなく崩れ、砂のように落ちた。
次の瞬間、別の場所でまた同じ肩が立ち上がる。
均しは“同じを作る”ことが得意だ。異なる角を次々と潰し、似たものを増やす。
「似せるほど、帰れる」
俺は帯に重さを落とし、返りを強くする。
似た形は同じ道を通りやすい。
ならば、用意した道に“似た肩”を誘い込み、ひとつずつ返せばいい。
エルドの網が肩の生まれる位置を固定し、マリアの祈りがその輪郭に撫でしろを与える。
エリナは“似た肩”が生まれるたび、同じ角度、同じ速度で角を落とす。
“同じ”が“同じ道”へ運ばれていく。
ラザロの合図で、鐘が二打、三打——
鉄の海から、かすかな歌が戻ってきた。
鍛冶場で歌われる、古い鎚の歌。
打つ者と運ぶ者、火を守る者の名前が、歌の中に散らばっている。
名前は差だ。差は流れの勾配だ。
歌が戻れば、畦は太る。
「角、落とす!」
エリナの叫びに、俺は要を緩める。
鉄の騎士が、わずかに膝をつく。
その“膝”に、エリナの刃が、優しく触れた。
撫でられた膝は角を失い、砂になって崩れ、返りの道に乗って、鉄の海の奥へ、そしてさらに向こうへと流れていく。
黒い波がしぼみ、鉄片がただの鉄片に戻っていく。
冷たい匂いに、焼けた鉄の小さな残り香が混じった。
鉄は、人の手に戻ってきた。
Ⅶ 編む
息を整えながら、俺たちは一度、空を仰いだ。
王都の星は、村より少し霞んで見えるが、それでも光っていた。
ラザロが綱の端を俺に向けて投げ、笑う。
「渡しは任せろ。鐘も、声も。——ただし、列を人で繋ぐことを忘れるな」
「わかってる」
俺は帯の芯に、村の若木の返りをもう一度、確かめた。
遠く、温い脈が返ってくる。
行って、戻る。
都市畦は、人の列でしか完結しない。
「次は聖堂中庭だ」
エルドが図を思い浮かべるように目を細める。
「巡礼が最高潮になる日、真下の貯水槽に大きな“口”が開く。——都市畦、鐘、祈り、剣、網、そして“縁守”。全部、同時に編む」
マリアが静かに言った。
「わたくしは、節に立ちます。祈りを器ではなく、道の言葉にする。それでも、もし流れが折れたら——」
「俺が角を落とす」
即答すると、彼女は目を伏せて、微笑んだ。
屑鉄の丘の端で、子どもが二人、顔を出してこちらを見ていた。
泣き止んだばかりの目の赤さで、それでも興味が勝っている顔。
ラザロが手招きした。
「お前ら、名前は」
「ルカ」「ミーナ」
「いい名前だ。鐘の下で、俺の横に立て。声を渡すやり方を教える。列は手だ。手は人だ。人が縁になる」
俺は胸の奥が熱くなるのを感じた。
畦人断片の一行が、掌の輪の裏でまた光る。
畦は列なり。列は手なり。手は人なり。
夜風が、今度は柔らかく街を撫でた。
遠く、鐘が小さく一打、合図を残す。
それは恐れの合図ではなく、約束の合図だった。
七つの扉。ひとつの縁。
閉じたのは三つ。
残り四つ。
その一つは、聖堂の下。もう一つは、王城直下。
息を合わせるには、まだ足りない“手”がある。
だが、渡せる人間は、もういる。
俺たちは聖堂に向けて歩き始めた。
足もとで土と石が静かに鳴り、帯の撚りが胸の上で呼吸する。
行って、戻る。
壊さないために。
そして、差を、歌に戻すために。
――続く――