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責任

 血の魔法が、ふらりと宙を漂った。


 刃にすらなりきれない、赤い雫の塊。

 それは途中で力を失い、床に落ちて静かに消える。


 もう、攻撃ですらない。


 俺の血を少しだけ吸って補充された魔力も、既に尽きかけている。


 それを横目で確認してから、スマホを耳に当てたままゆっくり息を吐いた。


「……なぁ」


 呼びかける声も、さっきより低い。


「電話、繋がってんだよな」


《…………》


 返事はない。

 でも、切れてもいない。


 無言のまま繋がり続ける回線。

 それはまるで、逃げ場を失った思考そのものみたいだった。


 俺は一歩、前に出る。

 吸血鬼――彼女との距離が、数メートルまで縮まる。


 紅い瞳が俺を見る。


 いや。

 正確には、見ていない。


 焦点が合っていない。

 命令と感情の狭間で、立ち尽くしているような、そんな目。


「……名前の話」


 その単語を出した瞬間。


 彼女の肩が、わずかに跳ねた。


《……っ》


 音にならない息。

 それだけで、十分だった。


「前に、言ってたよな」


 俺は彼女の紅い瞳から視線を逸らさない。


「名前は……ただの呼び名じゃない」


「呼ばれるたびに、自分が形になる」


《…………》


「だから、考えてほしいって」


「ちゃんと『今の自分』を呼ぶ名前を」


 紅い瞳が、かすかに揺れる。


 俺は苦笑した。


「それで俺、何て言ったか覚えるか?」


《…………………………花子》


 小さな声。

 喉の奥を擦るような、か細い音。


「即答で、しかもドヤ顔」


 自分で言ってて、流石になかったかなぁと今更ながら苦笑する。


「そりゃ怒るわな」


《…………》


 彼女は何も言わない。

 でも、魔法が完全に止まっている。


 もう、戦闘ですらない。


 俺はスマホを持つ手を下げる。

 肩が軋み、熱い痛みに指先が小さく震えた。


「……正直に言うぞ」


 少し、間を置く。


「最初は……スキル目当てだった」


「魅了の魔眼。欲しかった。マジで」


 紅い瞳が揺れて、すっと細くなる。


「それは否定しねぇ」


「騙してたって言われりゃ……まぁ、そうだ」


 床に血の雫が一つ落ちた。

 刃にすらならない。


「でもな」


 俺は一歩、踏み出す。


「ちょっとの、本当にちょっとの間だったけど」


「お前と話せて、笑いあって」


 一歩。


「文句言われて、怒られて」


「それでも一緒に居るうちに」


 また、一歩。


「……少なくとも今は」


「お前を道具としては見てないよ」


 彼女との距離が縮まっていく。


《…………》


「お前を大切な仲間だと思ってる」


《…………》


 沈黙。


 長い、長い沈黙。


 その間、遠くでまた音が響く。

 でも、この場所だけ、時間が切り離されたみたいに。


「……だから」


 俺は息を吸い。


「ちゃんと考えた」


 揺れる紅い瞳を、真正面から見る。


 初めて見たとき。

 あまりにも綺麗で、あまりにも寂しそうで。


 燃えるみたいなのに、触れたら凍りそうで。


 ただ、目を離せなかった。



「……『あかね』」



 その名前を、ゆっくり口にする。


 一音一音、噛みしめるように。


「深い赤」


「夕焼けの色」


 彼女の瞳が、見開かれる。


《「……あか……ね……」》


 自分の口で、頭の中で、確かめるように。


 名前が、空気に溶ける。


 魔力が、外へ漏れるのをやめる。

 今度は内側へ、静かに集まっていく。


《「……その名前は」》


 彼女の声が、震える。


《今の……私を……?」


 俺は、すぐに答えない。


 少しだけ考える。

 それから、はっきり言った。


「呼んでる」


「今、ここに立ってるお前を」


 紅い瞳。

 それは吸血鬼の色だ。

 彼女の過去の、呪いの。

 命令と支配が染み付いた、冷たい夜の色。


 でも、今ここに立つ彼女は違う。

 夜に沈み切る前の、暖かい熱を残している色。



「茜。……どうだ。今の、お前なら……」



 また、沈黙。


 けれど今度は。


 彼女は、胸元に手を当てる。





「…………茜」    》


 呟く。



「私は……」







「茜」



 もう一度、確かめるように。

 自分の名前を。


 そして。


 紅い瞳から完全に虚ろさが消えた。


「……望月」


 糸が切れる。

 重ねられていた保険が、音もなく崩壊する。


 命令ではない。

 支配でもない。


 選んだ結果として、ここに立っている。


 吸血鬼……『茜』は、まっすぐ俺を見る。


「……呼んだかしら?」


 その声は、はっきりと《《彼女》》だった。


 俺は、ようやく肩の力を抜く。


「……遅ぇよ。はい、じゃあこれで試用期間は終わりな。これからは正式雇用ってことで」


 茜は、ほんの少しだけ頬を緩めて。


「言いたいことは山ほどあるのよ? 分かってるのかしら」


「はいはい。あのな、上司は忙しいんだよ。部下のやらかしの責任とかさぁ」


「やらかしって貴方、完全に自業自得じゃないの」


 茜は小さく息を吸い。


 ――微笑んだ。


 紅い瞳が、夜の中で確かに光る。


 《――》


 「……っ!?」


 と、思ったそばから茜の膝が崩れ落ちる。


「おっと。おい、大丈夫か?」


「え、ええ。大丈、《――せ》夫……よ」


 そのまま倒れそうになる茜を抱きとめる。


「はは、そういやさっきもこうやって抱きとめ――」


 そして、顔を確認しようとした、そのとき――








 ――《殺せ》









 ずぶっ。



「……は?」


「……え?」


 熱い。

 茜を抱きとめて無防備になった腹に、異様な熱が走る。


「う、そ……違う……」


 遅れてきた痛みに、たたらを踏んで後ずさる。

 茜の紅い瞳が見開かれる。


 見下ろす。

 腹から突き出てる、紅。


 血。

 血の紅が。


「っ、マ、ジか……」


 血の魔力が形にならないまま、けれどもちゃんと突き刺さっている。


 ――《殺せ》


「わ、私……だ、だめ! 離れて……っ!」


 茜の腕が勝手に持ち上がる。

 紅い魔力が無理矢理集まる。

 まるで、命を削っているように。


「……くそっ」


 歯を食いしばる。血が噴き出る。

 刺された腹が焼けるように痛くて、熱い。


 ――《望月を、殺せ》


 スマホからノイズのような音が割り込む。


「この声……! あの野郎、マジで……!」


 彼女の顔が、歪む。

 泣きそうなのに。

 必死なのに。

 それでも、身体だけが言うことを聞かない。


「待って……! やめてっ!」


 茜は正気に戻ってる。

 でも、身体はまだ竹原に縛られている。


「っ……望月、逃げて……っ!!」


 彼女の意思じゃ止まらない。


「……魅了の核は、まだ残ってるっ……ぽいな……」


「お願い! 望月っ……!!」


 だったら――


 俺は、あえて一歩踏み出した。


 血の刃が放たれる。

 避けない。

 いや――避けられない。


 反射的に手に持っていたスマホを前に突き出す。

 耳元で鳴り続けていたノイズが甲高く跳ねた。


 ――ガンッ。


 硬い音。

 想像以上の衝撃が走り、指が痺れる。


「っ……!」


 血の刃は確かにそこに当たった。

 けれど、刃は貫通しない。

 スマホを滑り、そのまま俺の胸を切り裂いていく。


 スマホが弾かれ、床を転がっていく。

 金属とコンクリートが擦れる音が、やけに遠くに聞こえた。


「なんで、お願いだから……逃げてよ……!」


 腹の痛みがエグい。

 手も足も痺れてきてて、感覚が薄くなってきてる。


 そして、ノイズが止まらない。

 俺を殺せと、無機質に無感情に響いている。

 スマホは弾かれて、《《遠くへ消えていったのに》》。


 遠くから聞こえるでもなく、足元でもなく。

 聞こえるのは胸元……ダメだ、ノイズについて考える余裕はない。


「……大丈夫……だ。ちょっ……待っ、てろ……っ」


 胸を裂かれた痛み。

 口の中に広がる、鉄の味。


「……っがは」


 咳と一緒に、血を吐く。


 それでも――


 俺は倒れない。

 倒れてやらない。

 竹原の思い通りになんて、意地でもさせねぇ。


「……おい、茜」


 彼女の目が、揺れる。

 滲んだ紅い瞳から涙が溢れる。


 はは、酷い顔してんな。

 ったく、うちの新人をこんな顔にしやがって。

 あのクソ野郎、マジであとで殴ってやる。


 茜との距離は、もうゼロだ。

 目と鼻の先。


「……解除方法、覚えてるか」


「え……?」


 頭に巣食う魅了の魔力を、魔力を纏った打撃で吹き飛ばす。

 でも、金属バットは持ってない。

 そもそも……もう腕が上がらない。



 だから。

 血を。

 魔力を。

 俺の魔力で、頭の魔力を上書きする。


「……身体動かすのダルいんだよ。だから、悪いな」


 茜の身体が血の刃を振りかざす。

 

「だめ、やめて、いやっ!」


 俺は、ふらつきながら前に出て――






「――セクハラで訴えんなよ」






 振りかざした血の刃が、俺の胸へ突き立てられる。


 ――それと、ほぼ同時に。



 俺と茜の唇が、重なった。



「もちづ――んむっ!?」



 血を流し込む。

 刺される。

 紅い瞳が揺れる。


 コク、コク、と喉が動く音。

 ガッ、ガッ、と刃を突き立てられる感触。


 そして――


 血の刃が、霧散した。


 抱きしめられる。

 優しく、けれど逃がさない強さで。


 唇は離れない。

 血を吸われる。


「……ん……ちゅ……」


 吸う音だけが、やけに大きく響く。


 柔らかな唇。

 血に塗れて。

 奪われるたび、脳の奥が揺さぶられる。


 舌に触れる牙。

 微かに混じる痛み。

 かすめる感触に、背筋が震える。


 絡む息。

 密着する身体。

 血の匂いに混じって、かすかに花の香り。

 銀髪がふわりと揺れた。


 ――やがて。


 目を開ける。

 紅い瞳が確かな光を宿している。


 その色に負けないほど、顔を真っ赤にした茜。


 ……たぶん、俺も同じ顔をしている。


 茜は恥ずかしそうに視線を逸らしそうで――逸らさない。

 キスも、やめない。


 今度は茜のほうからも流れ込んでくる。

 温かい。

 魔力だ。


 切り裂かれた胸が熱い。

 刺された腹も、肩も、足も。

 身体中にある小さな傷さえも。

 彼女に優しく撫でられてるような、くすぐったい熱さが。


 だけど、それ以上に――


 顔が、舌が、熱を持つ。


 そして、しばらく。

 血塗れの中。

 言葉もなく。


 互いを確かめ合う時間が続いた。

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