上司。部下。
ジリリリ……という不快なベル音が止み、スピーカー越しにわずかな吐息が漏れる。
あっちは脳内会話なのに吐息が漏れるってどうなってんだろ……。
なんて、どうでもいいことを考えながら、スマホを耳に当てたまま歩く。
店内の照明は半分落ち、棚の影がやたらと長い。
その影の向こうから――
ピシュッ。
弱々しい血の刃が一枚、飛んできた。
「はいはい」
金属バットを軽く振って弾く。
乾いた音が響いて、砕かれた血の結晶が床に散った。
「……で」
俺はスマホに向かって言う。
「電話出たならなんか言えよ」
返事はない。
吸血鬼はそれ以上何も言わない。
電話に出た。
繋がった。
話せるはずなのに、
「おい、聞いてんのか?」
《……》
なのに、無言。
その間も、吸血鬼の手からは血液魔法が放たれ続けている。
だが、その威力はもはや目に見えてボロボロだ。
さっきまでの「回避不能な弾幕」はどこへやら。
今は一発、また一発と、単発で弱々しい血の塊が飛んでくるだけ。
「……お前さぁ」
それを、スマホを耳に当てたまま金属バットを片手で振り回してあしらう。
俺は文句を続ける。
「上司からの電話はワンコール以内に出ろって教えなかったか?」
ピシュッ。
また一発。
今度は避けるまでもない。
棚の角に当たって、べちゃっと潰れる。
「いつ呼び出されてもいいように構えとく。休みも仕事のうちだぞ」
《……》
「だいたいお前、なんで竹原に魅了されてるわけ?」
《……っ》
少しだけ反応。
「お前俺より強いんだろ? うんこマン如きの魅了くらい、どうとでもなるだろ」
《……》
「しかも夜なのに。受け入れてんじゃねぇよ」
《……》
「どうせ馬鹿みたいな罪悪感とか恩人がどうとか、しょぉぉぉもないこと考えたんだろ?」
《……》
「意志が弱いんだよ、お前。人間を信じたい? 人間が好き? 馬鹿言うなっての。それでいいように利用されてりゃ世話ねぇだろ」
《……》
軽口を叩いてみるが、スマホを持つ左手が小刻みに震える。
吸血鬼にやられた肩と足の傷が、熱を持ったようにズキズキと痛みやがる。
「……っ、痛てぇな。お前、自分が何したか分かってんのか? こっちはお前のおかげで、手が震えてスマホ持つのも一苦労なんだよ。足も痛ぇのにあっちこっち走り回されて。労災だぞ、これ」
それでも、返事はない。
スピーカーの向こう側からは、喉の奥で何かが詰まったような、ひりついた沈黙だけが返ってくる。
「おい」
少し、声を荒げる。
「いい加減、なんか言え」
返事はない。
血の刃が、間を置いて一発。
さっきより、さらに弱い。
《……》
「……」
……ずっと沈黙。
俺も、黙る。
聞こえてくるのは足音と、遠くで何かがが軋む音。
どこかでまだ戦ってる気配。
たぶん、松下さんと竹原だろう。
魔法はまだ飛んでくる。
でも、そこに殺意があるようには見えない。
ただ、止め方が分からないから続けているような。
あるいは……何かを拒絶しているような。
数秒。
十秒。
「……なぁ、怒ってんのか?」
ため息混じりに尋ねる。
吸血鬼の肩が少しだけビクッと跳ねた気がした。
返事はない。
ただ、血の刃が一発。
今度は明後日の方向に飛んでいった。
「……あー」
頭を掻く。
「だよなぁ……」
『魅了の魔眼』――本当はこれを欲しがってたのが見事にバレた。
自業自得。
いや、竹原の巧妙な作戦のせいだ。
あのうんこ野郎が余計なことをベラベラ喋りやがったからな。
興味ねぇ、とか言っといて。
かわいいだの、おっぱい見てぇだの。
落ち込んでりゃ励まして。
調子いいこと、散々並べて。
上手いこと丸め込んで。
――実は、スキル狙い。
吸血鬼にとっては、最悪の裏切りなんだろう。
それを、よりにもよって。
竹原の口から聞かされた。
しかも。
昔、信じた人間に裏切られて、実験動物や奴隷にされたっていうトラウマがある彼女にとっちゃ……俺も「結局、他の人間と同じ」ってわけだ。
それを理由にこっちを殺しに来たんだもんなぁ。
本気で。
魅了されてるとはいえ。
そりゃあ……黙るわな。いろんな意味で。
正直、バチクソめんどい。
この空気、めちゃくちゃダルいんだけど。
俺はこいつの過去を全部背負ってやるなんて、一言も言ってないんだが。
「あー……めんどくせぇなぁ」
俺はぼやいた。
血の刃が一発。
今度は床を転がるだけ。
俺は、スマホに向かって言う。
「……あー、分かったよ。分かった分かった」
俺は、スマホ越しに最大限の「あー、めんどくせぇ」というニュアンスを込めて、吐き捨てるように言った。
「俺が悪かった。……ごめんて」
正直に謝った。
軽く。
本当に、軽く。
事務的に。
「スキル狙いだったのは事実だ。お前のこと騙してたのも、まぁ、否定はしねぇ」
《……っ!》
吸血鬼の動きが止まった。
「でも……最初だけだぞ? 今はそんなこと全然思ってないし……だから、ごめん。な?」
《……》
また、魔法が飛んでくる。
「おい、聞いてんのか? ……悪いと思ってるよ。嘘じゃねぇ。いや、嘘も混じってたけど、今は謝ってる。謝るから……その虚ろな目ぇしてんの、もうやめてくれない? 見てて寝覚めが悪いし」
《……》
無言。
「いや、だからさ」
バットで刃を弾きながら続ける。
「ちゃんと謝ってんじゃん」
沈黙。
「……あー、もう」
肩が痛む。
足が震える。
正直、余裕なんてないんだけど。
「ごめんって」
もう一度。
「何度も言うけどさ、騙すつもりは……まぁ、ちょっとはあったけど」
「最初から捨てる気とか、ねぇから。お前かわいいし。あとおっぱいでかいからな!」
血の球がぽすっと一発、俺に当たる。
「いや、これは本当だぞ? 最初から言ってるだろ。かわいくて美人だから気になるって」
また、一発。
今度は俺の足元で止まった。
「なあ、聞いてる?」
しばらくして。
スピーカーの向こうからかすかな息遣い。
そして――
《………っ………》
何か言いかけてやめたような間。
俺は、少しだけ笑った。
「……ほら。無言でも、いいから」
バットを床にカランと落とし、スマホを右手に持ち替えて耳に当て直す。
「電話、切るな」
弱々しい血の魔法が、最後にもう一発だけ飛んできた。
さっきまでより、ずっと遅く。
ずっと、迷っている軌道で。
俺はそれを、震える左手を上げて受け止める。
「まぁ、切っても……お前が話すまで、かけ続けるからな」
上司ってのは、しつこいんだよ。
――特に、部下が黙り込んだときほど。




