ノリノリである
吸血鬼は静かに歩を進め、唇の端に微笑を浮かべている。
その笑みは美しくも、どこか壊れた人形のように冷たい。
「……さて。次は――あなたの番ね。タケハラ」
「――ひゅっ」
その一言で、竹原の身体がびくりと跳ねた。
喉が鳴り額から汗が流れる。
口は震え、さっきまでの威勢を失って顔が蒼白になる。
尻もちをついたまま這うように後ずさる。
その姿に、支配者ぶった尊大な態度はもう跡形もない。
「ひ、ひぃ……! や、やめろ……くるなよ……!」
声が裏返る。
まるで自分の吐いた言葉にすがるように。
肉食動物に狙われた小動物のように、ただガタガタと身体を震わせていた。
周囲の避難民たちは誰も動かない。
ただ静かに、竹原の滑稽な姿を見ていた。
「ま、待て……ま、待てよ……。な、なにをする気だ……? 俺は、俺はただ、みんなを、守ろうと……!」
吸血鬼が小さく笑う。
紅い瞳が細くなる。
月光を浴びた刃のように、冷たい紅が揺らめいた。
「『守る』って言葉、便利ね。自分の都合を正当化できる魔法みたい」
「そ、そんな、ちが、違う――」
「人を、私を『役に立つ道具』としてしか見なかった人間が、よく言うわね」
「ち、ちがっ……! あれは、その……誤解でっ……!」
「ええ、誤解。あなたの言葉は、いつもそうね。誤解を生む才能があるわ。……あなたの存在自体が誤解みたいなものだし」
軽やかな声で、静かに突き刺すような言葉。
竹原の顔がみるみる歪む。
「や、やめろ……! お、俺に手を出す気か!? お、お前……俺をどうするつもりだ……!? な、なあ、言えよ……!」
今はただの怯えた子どものように震えてる王様に、吸血鬼はくすくすと楽しそうに笑う。
銀髪を指で弄びながら、ゆっくりと近づく。
紅い瞳が愉しげに細められる。
「どうするつもり、ねぇ……どうしようかしら?」
「ひっ……」
吸血鬼が、わざとらしく首を傾げた。
紅い唇が妖しく歪む。
「そうね……あなたの血、全部吸い尽くして、干からびた抜け殻にしてあげましょうか。それで避難所の入り口に飾るの。どう?」
一歩、また一歩。
ブーツの音が、コツ、コツと響く。
「あ、でも、あなたの血って、たぶん不味そうよね。ストレスと脂肪の味しかしなさそう。じゃあ、それとも――」
「や、やめっ……!」
震える手で床を掻き、必死に距離を取ろうとする。
避難所の隅に追い詰められ、壁に背中を押しつけた。
「――自我を残したまま魅了してあげようか。自分で自分を殴りながら『俺は無能のクズです』って言い続けるの。死ぬまで。……どう? 楽しそうでしょ?」
竹原の顔が、恐怖でぐにゃりと歪む。
汗がだらだらと流れ、床に染みを作る。
「や、やめてくれ……っ! 冗談だろ、なぁ!」
避難民たちの誰もが息を呑む。
松下たちも、その場にいる全員が――吸血鬼の笑みに、凍りついていた。
それはもはや笑みではない。
捕食者の余裕、そのものだった。
「ふふ。ねぇ、怖いの?」
「ひぃっ……」
「その絶望した顔、良いわね。あなたが散々、他人を見下ろしてた時の顔より、ずっと似合ってる」
吸血鬼がゆっくりと歩み寄る。
紅い瞳が闇の中で光を放つ。
白い指が、竹原へと伸ひかけ――、
「い、嫌だっ、嫌だぁっ! 俺は、まだ死にたくない! 頼むからっ、何でもするからっ……! た、助けてぇぇっ!」
――吸血鬼は、ふっと息を吐く。
笑みを消し、肩をすくめた。
「――なんてね。そんなこと、《《私は》》しないわよ」
「……へ?」
竹原が、ぽかんと口を開ける。
避難民たちも、息を呑む。
「なによ、その顔。はぁ……あなたは人として最低のクズだけど、私を助けてくれたのは事実。命の恩人なのは変わらないもの」
竹原の目が見開かれる。
その声には、哀れなほどの安堵が滲んだ。
「そ、そうだよな……そうだ、そうだ! 俺はお前を助けた! 命の恩人だ! お前は俺のために――」
「でもね」
吸血鬼が薄く笑う。
「あなたの命令を聞いて、男たちを魅了して、王様ごっこを手伝ってあげた。恩返しは、それで十分だと思うのよね」
「な……なん、だと……」
竹原の目が、ぎょろりと動く。
怯えが、怒りに変わる。
立ち上がり、声を張った。
「お前……命の恩人に対して、その程度か? 俺に助けてもらっといて、そのくらいで返せる恩なのかよ!?」
竹原の声が、再び甲高く跳ねた。
怒りなのか、恐怖なのか、自分でも分かっていない。
「ふ、ふざけるな……ふざけんなよっ! 俺は、お前を助けてやったんだぞ! 死にそうだったお前を! もっと、もっとだ! 一生かけて返せ! 俺がいなかったらお前は死んでたんだ! なら、俺の奴隷になれ! それが当然だろ!?」
竹原は、ただ、支配していた頃の幻にすがるように叫ぶ。
「……そうね。命の恩人のあなたにはそれはもう、大きな借りがあるわ。出来るならもっと恩をきっちり返すべきなんだと思う。 ……今までも私はそうやって生きてきたし」
「そ、そうだ! 借りをきっちり返せ! 人としての礼儀だろ! 分かったならさっさと――」
「でもね――なんかもう、めんどくさくなっちゃったのよねー」
「……は?」
吸血鬼は、ため息を吐いて疲れたように髪をかき上げる。
どこか、張り詰めていた糸が切れたように。
「ごめんなさいね。分かってるのよ。でもね……もういいかなって」
紅い瞳が細められ、面倒くさそうな顔で竹原を見る。
その表情には、ほんの一瞬だけ人間らしい翳りが見えた。
「今の私ね、自分のアイデンティティというか……。なんかそういうのが崩れたというか……」
吸血鬼は静かに首を振る。
「魅了の魔眼で悩んでた頃の私は、ずっと『自分の存在』に苦しんでた。でも結局、それも全部、勘違い。……悩むほどの価値もないことだったの」
吸血鬼は苦笑する。
まるで自分の言葉に自嘲するように。
「そう気づいたら、急にどうでもよくなっちゃった。ふふ、彼と契約したせいかしら。感染るのね、あの『めんどくせぇ精神』」
その口調は柔らかく、どこか皮肉めいていた。
「だから、もう恩返しとかどうでもいいかなって。これ以上、あなたに何かしてあげようとか思わないわ」
紅い瞳が、優しく、しかし冷たく竹原を見据える。
竹原は顔を歪め、わなわなと震える。
怒りと恐怖の区別もつかないまま、吠えた。
「な、なに勝手なこと言ってんだ! 俺をここまで追い込んでおいて、めんどくせぇだと! ふざけんな! 借りを返せ!」
「借り、ね」
吸血鬼の笑みが、ふっと消える。
冷たい紅の瞳が、竹原を真っ直ぐ見据える。
「そう言えば……あなたに借りを返したいのは、私だけじゃないのよ?」
「……は?」
竹原が眉をひそめる。
その瞬間、静寂を裂くように――音が響いた。
……ズズ……ズ、リ……。
何かを引きずるような音。
金属が床を擦る――カラ……カラカラ……カラン……。
避難所の奥から、ゆっくりと音が近づいてくる。
竹原の顔から、完全に血の気が引いた。
喉の奥で、ひゅうひゅうと呼吸の音が鳴る。
「な、なんだよ……この音……やめろ……やめろって……!」
吸血鬼が微笑む。
唇に指を当て、楽しそうに目を細める。
「……あら。噂をすれば、ね」
竹原の喉が、ごくりと鳴る。
ズリ……カラカラ……ズリ……。
闇の向こう、廊下の奥から――
ひとりの影が、ゆっくりと現れた。
血に染まった作業着。
包帯に覆われている顔。
包帯の隙間から、昏い瞳が覗かせる。
足を引きずり、手にした金属バットをずるずると引きずる。
その先端が床に擦れ、甲高い音が鳴り響く。
カラ……カラカラ……カラカラカラ……。
竹原の喉が、ひゅっと鳴る。
その目に絶望が宿った。
「……そ、そんな……う、嘘だろ……?」
その《《何か》》が止まる。
包帯の奥で、口元がわずかに動いた。
くぐもった声が、響く。
「……たぁけ……はぁらくぅぅん……いっしょにぃィィ……あぁそびィぃましょぉおぉ……」
ぞわり、と空気が逆立つ。
避難民の誰かが悲鳴を上げそうになった瞬間、
吸血鬼が人差し指を立てて「シッ」と制した。
そして、竹原にだけ聞こえるような声で――囁く。
「彼ね。意外と根に持つタイプなのよ。あなたに後ろから殴られたの、相当ムカついてるみたい。地獄から戻ってきちゃったわ」
「――あ、ぁ……あぁあぁあぁぁッッ!!」
竹原の悲鳴が、避難所に響き渡った。




