責任
私は、ずっと前から考えてきたことがある。
人はなぜ結婚するのか、なぜ子供を産もうとするのか。
答えは簡単だ。自分の幸せのためだ。
愛し合った二人が家庭を築くことは自然なことのように見える。だが、そこに「責任」という言葉を置いた瞬間、その自然さは途端に重苦しいものへと変わってしまう。
私は思う。精神的に自立していない人間は、結婚すべきではない。
結婚はただ「好きだから」「一緒にいたいから」だけで続くものではない。
お互いの自由を制約し、生活を共にし、時には相手の苦しみや重荷を背負うことになる。
それを理解しないまま、勢いだけで踏み出す人々があまりにも多い。
最近は、精神的に自立できていないのに結婚し、無責任に子供を産み、その子供に可哀想な人生を背負わせてしまう人々の姿をよく目にする。
ニュースを見ても、身近な噂を耳にしても、どこかで同じ構図が繰り返されている。
それは単なる一つの家庭の出来事に見えるかもしれない。けれど、そこで泣いているのは「一人の人間」だ。まだ自分では生き方を選べない子供だ。
もちろん私は、世の中の事情を知らないわけではない。
物価は上がり続けている。
賃金が思うように上がらず、生活が苦しい家庭も数多くある。
それを承知のうえで、それでも考えてしまうのだ。
お金を持たない人間が、なぜ子供を産むのか。
なぜ、自分たちの生活をさらに苦しいものにする道を選ぶのか。
自分たちの幸せを追い求めることを、私は否定はしない。
だが、自分の幸せというちっぽけなもののために、子供という一人の人間の人生を犠牲にしていることを理解しているのか。
甚だ疑問である。
子供は親の都合で生まれてくる。
選択肢を与えられず、望まれたかどうかも知らぬまま、この世界に放り込まれる。
笑顔の裏で、親の無責任さに翻弄される子供の姿を、私は何度も見てきた。
友人の家でも、近所でも、街の片隅でも。
子供は親の影を映しながら育ち、その影に押し潰されることがある。
精神的に自立していない人間は、自分を守ることさえできない。
そんな人間が、他者を守れるはずがない。
それなのに、結婚をし、子供を産む。
それはあまりにも軽率で、残酷ですらある。
私はこの世界で生きていく限り、こうした矛盾を目にし続けるだろう。
そしてそのたびに胸の奥がざわつき、どうしようもない憤りに包まれる。
人間はなぜ、自分の未熟さを見つめようとしないのか。
なぜ、自分にできないことを、簡単にできると勘違いしてしまうのか。
この社会に満ちているのは、希望ではなく、無責任の連鎖だ。
結婚し、子供を産むことは、確かに祝福されるべき出来事かもしれない。
けれども、そこに「責任」という灯りがともっていなければ、その祝福はただの虚ろな飾りにすぎない。