風紡ぎの谷
朝の霧が深く、谷は白い繭のように沈んでいた。
まかない部の荷車が坂を下ると、
霧の向こうに淡い光が揺れているのが見えた。
ミナが目を凝らす。
「なんや……光の糸?」
風が吹くたびに、光の筋が谷間を渡っている。
それは水でも煙でもなく、
まるで“風そのものが形になっている”ようだった。
ソラが低く口笛を吹く。
「風が、見える……?」
アリアが頷く。
「ええ。ここは“風紡ぎの谷”。
風を織って布にする――古い一族が住んでいるの」
ルナが静かに息をのむ。
「風を織る……。そんなことが、本当にできるの?」
アリアは微笑んだ。
「できるのよ。風も人も、心を込めれば“形”を持つから」
⸻
風を織る人々
谷の中央には、木と石で作られた大きな機織り台があった。
老若男女が無言で糸を操り、
織られていく布は、角度によって光を変える。
ルナがそっと覗き込む。
「……風の音が布になってる」
たしかに、布が揺れるたび、
鈴のような微かな音が響いていた。
ミナが目を丸くする。
「これ、飯の湯気より繊細やな……!
触ったら消えそうや」
職人の一人が近づき、穏やかに笑った。
「風を傷つけないように織るのです。
音や香りは、風の心。
強く引けば、壊れてしまいます」
アリアが深く頷いた。
「――“織る”というより、“聴く”のね」
⸻
風糸の仕組み
ソラが興味深そうに尋ねた。
「その糸、どこから取るんや?」
職人が小さな瓶を見せた。
中には薄い霧が渦を巻いている。
「朝と夕の風が交わる瞬間、
谷の“呼吸”から風糸が生まれます。
それをすくい取り、月の光で撚るのです」
ルナが目を輝かせた。
「……まるで風を育ててるみたい」
職人は頷いた。
「風は、手をかけたぶんだけ応えてくれます。
荒らせば嵐に、見守れば歌に――。
私たちは、その違いを“糸の声”で聴くんです」
⸻
まかない部の共鳴
ミナが台所を借り、
風の流れを読むように鍋を火にかけた。
湯気が立ち上り、織り台の上を通り抜ける。
布がふるりと揺れ、淡い香りが染み込んだ。
職人が目を見開く。
「……香りが、風糸に馴染んでいる」
ルナが微笑んだ。
「食も音も布も、風がいなきゃ生まれないんだね」
アリアが頷く。
「ええ。
だからこそ、風は“媒介”。
見えないものと見えるものを結ぶ存在なの」
ソラが笑って言った。
「風が布になって、香りまで織り込まれるとはな。
まかない部、どこ行っても相性ええな」
⸻
結び
夕暮れ。
風紡ぎの谷の布が棚に並べられていた。
金でも絹でもない、
光と風でできた透明な織物。
ルナが手のひらで撫でると、
布の中で微かな音が鳴った。
アリアが静かに言った。
「風を織るとは、風を理解すること。
そして、風を信じること」
ミナが微笑む。
「信じたら、風も飯も布も、ちゃんと応えてくれるんやな」
ソラが頷く。
「せやな。
この布、旅に持ってったらええ護りになりそうや」
夜風が吹いた。
布がそよぎ、微かな旋律を奏でる。
まるで――谷そのものが夢を見ているようだった。
まかない部はその音を胸に刻み、
再び風の道を歩き出した。




