風の祭
夜明け前、ノワルの町に霧が流れていた。
風はやさしく、眠っていた家々の屋根を撫で、
塔の鐘の縁をそっと鳴らしていく。
まかない部は早くから広場に集まっていた。
今日は“風の祭”。
再び風が戻ってから、初めて迎える記念の日だった。
ミナが火を整えながら呟く。
「賑やかにせぇへん祭りっちゅうんも、ええな。
風の音が主役や」
ソラが荷車から香草を取り出す。
「風が喜ぶように……静かで、あったかい匂いにしようや」
ルナが頷き、アリアが微笑んだ。
「風は耳より、心で聴くもの。
だから――この祭りは“静けさの歌”なのよ」
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祈りの準備
広場には、町の人々がゆっくりと集まってくる。
誰も声を荒げず、笑いも囁きに近い。
それでもその空気には、喜びが満ちていた。
子どもたちは布に描いた“風の印”を手にし、
家々の軒先に結びつけていく。
それがはためくたび、小さな音が鳴った。
ミナが鍋をかき混ぜながら言う。
「香り、ええ感じに回っとるな。
風が味見してるわ」
ソラが笑う。
「この町の風は、食いしん坊やな」
ルナは香炉に手をかざし、
ゆっくりと香をくゆらせた。
煙が立ち上り、風に乗って町全体を包む。
アリアが目を閉じ、静かに言葉を落とす。
「風よ、ありがとう。
奪わず、怒らず、
ただ、ここに居てくれてありがとう」
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風と灯
祭りの中心では、塔の前に並べられた小さな灯籠が、
順に火を灯されていった。
炎は強くなく、まるで風に寄り添うようにゆらめいている。
その周りで、まかない部が鍋を開いた。
湯気が立ち上り、香りが灯と重なって、
空へと柔らかく昇っていく。
ルナが微笑む。
「風と火と香り……全部、ひとつの祈りみたい」
アリアが頷く。
「ええ。
この町が再び風と歩けますように、
その願いを“香と食”で結ぶの」
ミナが湯気に包まれながら言った。
「せやけど、飯炊きながら祈るっちゅうのも不思議やな」
ソラが笑って答える。
「腹が満ちたら、心も風通しようなるんや」
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感謝の祭
日が昇るころ、
町中の家から香が焚かれ、
すべての煙が塔の上空でひとつに交わった。
風がそこを抜けるたび、
白い煙が薄く溶け、光を帯びて揺らぐ。
それはまるで――
風が町の祈りを受け取り、空へ運んでいくようだった。
子どもが小さな声で言う。
「風、ありがとう」
それに応えるように、塔の鐘が鳴った。
誰が鳴らしたのでもない。
風そのものが、鐘を揺らしたのだ。
ルナが目を細める。
「……風が祝ってる」
アリアが静かに頷く。
「風は、感謝を返してくれるの。
人が生きている限り、ね」
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結び
祭りの終わり。
町はいつもより静かだった。
けれどその静けさは、もう“閉ざすため”のものではない。
生きて、動いて、聞き合うための静けさだった。
ミナが火を消しながら言う。
「これで、ようやくほんまの“風の町”やな」
ソラが笑う。
「風の祭、また来年もやるか」
ルナが頷く。
「きっと、来年の風は今日より優しい」
アリアが小さく目を閉じ、
夜明けの風に向かって囁いた。
「――ありがとう。今日も、生きています」
風が灯籠を撫で、火を消す。
その瞬間、光がひと筋、空へと昇っていった。
ノワルの夜は、祈りの余韻の中で、
静かに息づいていた。




